うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

誕生会と、ねこさん小屋と、「ほんのわずかでも行為がたじろいだら、本当の被分析者になるのは分析家の方である」ジャック・ラカン


 今日は、まりちゃんの誕生会!御自身が選ばれたケーキと料理で皆さんが祝ってくれたと、女性職員が写メを送ってくれました!
 今年も色々有りましたが、あったからこそ来てくれた職員(看護師)もいて、小さいなりにも段々と地域に貢献できる施設になっていけるようになっていると思っています。
 明日は早番の職員がいるので、おっちゃんの早番は3日で終わりましたが、いつでも行ける時には駆けつけたいと思っています。



 帰宅しても事務仕事などがあり、ほっとは出来ませんが(笑)ねこさんは、いつもほっとしています(笑)今日は暖かいので、コンセントは入れませんが、寒い時には、ねこさんから入れろと要求するそうです(笑)

 ネットのニュースを見ていたら、加湿器だけでは中々相対湿度が上がらないので、インフルエンザの予防には、環境に依存するのではなく、自分がまめに水分補給をすれば、湿度が自分の内部にはあるので、感染しにくいとありました。本当か?どうか分かりませんが、理屈的には頷いてしまいました(笑)
 おっちゃんは冬場、みかんマンになるので大丈夫でしょうか?


 そんな中でも、維持で(笑)読書しています。
下記のラカンの言葉は、福祉の現場でもそう感じます。武士は食わねど何とやらと言いますが、余裕がある態度は、どんな状況でも必要だと思っています。一番下は、長くて難しいですが、何回か読んでいただければ、支援に役立つ部分と思っていただけると思われます。


 『ほんのわずかでも行為がたじろいだら、本当の被分析者になるのは分析家の方である』ジャック・ラカン

 
『クライン―ラカン ダイアローグ』
逆転移
 2 逆転移についてのラカン派の見解 ヴィーチェンテ・ポロメラ



 「ほんのわずかでも行為がたじろいだら、本当の被分析者になるのは分析家の方である」ジャック・ラカン「挫折の理由」ScilisetⅠ



 ラカンとマネー=カール
〜妄想分裂メカニズムが顕著な神経症患者が大変な不安を抱えてセッションに訪れた。というのも、彼は職場で仕事が出来なくなっていたからだ。彼は来る途中に、道に迷ったり、車に轢かれたりするのではないかと漠然と感じており、自分を役立たずであると卑下した。以前に似たような出来事があって、その際彼は週末のあいだは離人感を抱いていた。「レーダー」を店に置き忘れてしまい、月曜日にならないとそれを取りに行くことができないだろうという夢を見たのであった。私はそのことを思い出し、彼は幻想のなかで自分の「良い自己」の部分を私のなかに置いてきてしまったのだと思った。しかし私はこの点についても、そして彼に提示し始めた他の解釈についてもそれほど自信を持てなかった。そしてまもなく彼の方は、それらの解釈すべてを、怒りを募らせながら拒絶するようになった。そして同時に、頼りにならないと言って私を罵っていた。役立たずで困惑していたのは私の方だった。
 セッションが終了した時の私に状態が、開始時に彼が自分について描写した状態ときわめて似ていると最終的に認識した際、私は「再投射」の慰めを感じることができた。こうしてこのセッションは終了した。
しかし、次のセッションの開始時には、彼は同じ雰囲気で現れた。怒り狂い軽蔑的であったのだ。そこで私は、彼自身がかつてそうだった役立たずの漠然とした状態に私をこき下ろしているのではないか、と彼に言った。そして私を「審問し」、質問しては答えを拒絶することでこれを成し遂げたのではないか、かつて義理の父がそうしたように、と。彼の応答は衝撃的であった。それから二日間のあいだ、彼ははじめて静かで思慮に富むようになっていた。私の解釈すべては彼の病気ではなく私の病気に関係している、彼はそう感じていた。このことこそ昨日は何故自分があれほど怒っていたかを説明するものではないか、と彼は言ったのであった。
 あたかもスローモーションの写真のごとく、ここではっきりしたプロセスを見ることができると示唆しておこう。理想的で標準的な分析の段階では、このプロセスは極端に早く起こるものである。彼が横になりつらい悩みについて語るや否や、私は言わば彼を受け入れ、取り入れによって彼に同一化しはじめたのではないかと思われる。しかし私はすぐには、私のうちですでに理解されていたものに対応させて、それを認識することはできなかった。そしてこのために、私はそれを私のなかから取り出して説明するプロセスや、彼のなかにそれを改めて移し変えるプロセスに手間取ったのであった。一方彼は、効果的な解釈を得ることができないことに苛立って、精神的無能感を私に投射して反応した。と同時に、彼は失ったと思っていたものを私から取り出したかのように振舞ったのであるが、それは彼の父の明晰ではあるが、攻撃的な知性であり、これでもって彼は私のなかにある彼の無能な部分を攻撃したのであった。このとき、もちろん、私が最初に失った場所まで引き返そうとするのは無駄なことであった。新しい状況が生じ、これが私たち療法に影響を与えていた。こういった状況を引き起こした患者の部分を解釈するまで、私は黙って自己分析を行い、そのなかで二つのことを識別しなければならなかった。これら二つはきわめて似ているように感じられた。つまり、解決の糸口を失ってしまったという私の無力感、そして患者が無能な自己に対して示した軽蔑のことであり、これらが私のなかにあると患者には感じられたのであった。私はこの解釈を自分自身に下すことで、最終的にその半分を彼に手渡すことができた。そして標準的な分析状況を修復したのである。



 みなさんもお分かりのように、この分析家は袋小路の状態にいます。彼は理解できないので抑うつに陥っています。彼が治療のはじめに患者を見出し、患者をそこから救おうとした抑うつ態勢は、今や分析家のものとなりました。そこで生じたことと言えば、分析家が足がかりを失い、「再投射」の段階に進むことができなかったということでした。彼はもはや効果的な解釈を提供することができないのでした。
 週末のあいだに、患者は店に「レーダー」を置き忘れてしまい、月曜日まで取り戻すことができないという夢を見ました。マネー=カールにとってこれは、特定の症状、とりわけ不安という症状の解釈へと通ずるものでした。分析家は言います。「彼は自分の『良い自己』の部分を私のなかに置いてきてしまったのだと思った」。分析主体はこの介入をまったく好まず、軽蔑的で攻撃的になりましたが、もはや「離人的」にはなりませんでした。
 この離人的な彼の状態を引き受けたのはマネー=カールでした。彼が言うに、患者はマネー=カールを役立たずの対象へ、患者自身がかつてそうであったのと同じ状態に貶めたのでした。そして問いを示すと同時に答えを拒絶するという仕方で、父と同様のことをしているのだ、と付け加えます。それかtら二日が経過して分析主体が言うに、そのような解釈は自分には関係がなく、逆に、病気なのは分析家のほうだとのことでした。
 そこでマネー=カールは、この状況のなかでは、彼は、自分のうちに、また自分について、これまでの理解の仕方に対応するような形のものを見て取ることができませんでした。
 状況がいかにして、一八〇度転換するかをご理解していただけるでしょう。この患者は分析家の分析家に転換されたのです。実際、このタイプの治療は敵対的な関係へと逸脱したまま固まってしまうことがあります。
 ラカンがこの臨床例を考慮に入れたのは、ある種の要求が分析家自身の要求と並行した動きを取って、分析家の感情にさまざまな効果を及ぼすということを明らかにするためでした。主体の要求が裏返しのかたちで分析家自身の要求を表わすとしたら、過酷な超自我の力強い効果に直面することになります。そしてこれこそがマネー=カールの経験したことでした。取り入れの試みに失敗した際、彼は他ならぬ彼自身の超自我を見出したのでした。親になるという欲動の失敗のなかで挫折へと同一化すること、これが精神分析家の抑うつ態勢なのです。
 精神分析家の抑うつは、自分が占める位置についての近視眼の効果として提示されます。また、この効果は患者の無意識に対する無理解の効果でもあります。これは誤解のトラウマ作用なのです。〜