うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

火災通報訓練等と、怪獣の絵と、『トーテムとタブー』(フロイトを読むより)



 今日は、ケース会議の前に、火災通報訓練と消火器訓練、避難経路の説明と地震津波の揺れや、津波の高さ等の説明を、しょうぼうの方からして頂き、改めて日頃から準備をきちんとしていないと大変なことになるなと思いました。
 職員から消防の人に、座位が取れなくて寝たきり状態の利用者さんがいるが、その時はどういう風にして運び出すのか?と言うような質問があり、皆さん真剣に聴いていました。
 答えは、ひとつではありませんが、力のある方は抱いて出せますが、力のない方は不安になるでしょうね?そのような方がショート利用時は、力のある職員が夜勤をさせて頂いていますので、ご安心して下さい。
 早朝に地震があったので、みなさん真剣でした。おっちゃんは相変わらずだったので、叱られました......。済みませんでした。


 朝、ニュースの、津波の避難情報の映像を見ていて、ふと思いましたが、海を映していても、のんびりしていいのかな?と思ったので、避難している映像も同時に流していただけると、本当に避難が必要だと思うので、そんなことも考えて欲しいなと思いました。もちろん、煽り立てるような映像は不安を駆り立てるだけとは理解はしていますが、映像というのは、自分には関係ないなと、どうしても思ってしまいがちですね。戦争の映像を見ていてもそう思ってしまう自分がいます.....。


 夜には、B-SproutのTシャツを作ることになったので(親御さんたちのご要望で)親分が皆さんに、怪獣を描いてもらってました!なんで怪獣?なんでしょう.....。


 いろいろある日常ですが、意地になって(笑)本は読ませて頂いています。
 ギターも練習しないといけませんね....。25日は、急に全国障害者文化祭のオープニングで流す映像の撮影が決まったので、文化会館で演奏を行う事になりました!
 ギターの調整が間に合ってよかったです。

 


 アップは、少し前に読んだ箇所ですが、フロイトを読んでいても、分かりにくかったり、細かい情報を得るのに難儀しないといけなかったですが、こんなに分かり易くて良い本があるので、本当に助かります。
 『表層意識の都』を読んでいて(まだアップさせて頂いていませんが)、関連していたのでのアップです。


『トーテムとタブー』(1912-1913a)
[フロイトを読むより]
【伝記と歴史】
《宗教の起源の謎》
 宗教の起源への問いは、常にフロイトの心を占めていた。彼は宗教活動をしないユダヤ人だったが、ユングの神話学と神秘主義についての研究によって、彼の関心は再燃した。1911年以降フロイトは、宗教と民俗学に関する多くの著作を研究することに膨大な時間を費やした。とりわけ、フレイザーFrazerとブントWundtの著作は彼を魅了した。彼はその後の2年間のほとんど全てを、『トーテムとタブー』を構成する4つの試論を書くことに費やした。これらは〔初め雑誌『イマーゴImago』に〕1912年から1913年にかけて次々と発表され、それから1冊の本にまとめられた。この著作は、精神分析サークルの外では悪評に見舞われ、特に人類学者たちはフロイトが諸事情を誤って解釈したと非難し、フロイトの仮説の普遍性を疑問視した。しかしフロイト派、自分の結論を決して放棄せず、書いたことを一切変更しなかった。逆に彼は、同じ命題を集団の心理学についての後の著作でも再び取り上げて、自分の立場を1939年には改めてこう主張している。「しかも、何よりも先に言うべきことだが、私は民俗学者ではなく、精神分析者なのである。私は、民俗学の文献のなかから分析的な仕事のために用いうるものを選び取る正当な権利を持っていた」(Freud 1939a:131,岩波22:166)。




《カール・グフタフ・ユングとの決裂へ》
 1911年、精神分析運動は広がり始めた。ウィーン精神分析協会内部で激しくなることが多い衝突が現れた。それは意見の相違と、一部の弟子たちの間で悪化していく嫉妬の感情に関係があった。アドラーAdlerは自分の理論的展開に伴い、無意識・抑圧・幼児性欲といった精神分析において必要不可欠な概念を放棄して、1911年に脱退した。1912年、今度はシュテーケルStekelが協会を去り、フロイトを安堵させた。長い間フロイトに「皇太子」と見なされていたユングに関しては、状況は違っていた。彼らは6年間一緒に仕事をしたが、1907年に初めて会ったすぐ後から、2人の間で意見の相違が既に現れていた。そのことは、ユングが国際精神分析協会(IPA
の初代会長に1910年になり、年報Jahrbuchの編集長になることの妨げにはならなかった。また、1909年にフロイトがクラーク大学に招かれて合衆国に行く時、ユングが彼に随行する際の問題にもならなかった。当時ユングは、神話学を研究し始めていたが、彼らの意見の相違は、「リピドー」の概念に賦与されるべき意味に集中した。フロイトがリピドーに性的欲動のみの表出を見たのに対して、ユングはリピドーが性欲に還元されうるものではなく、自己保存欲動を含む欲動を含む欲動一般という意味を有していると考えた。ユングは『リピドーの変容と象徴』を1912年に上梓した。そこで彼は、リピドーの性質・神話学・近親姦の象徴的な意味についての自分の考えを展開した。フロイトに、ユング精神分析運動から去ることを求めるように決心させたのは、その本に含まれていた考えだった。それほどまでに彼らの科学的な相違は明らかになっており、これに先立ついくつかの逸話は既に、彼らの決裂が近づいていることを伝えていた。例えばユングの側のいくつかの失錯行為であり、フロイトミュンヘンユングの面前で気絶したことがある。この出来事によってフロイトは、かつての弟子に対する死の願望に気づき、彼が生後19ヵ月の時に、弟に対して類似の死の願望を経験していたという記憶を呼び覚ました。フロイトユングとの間の最終的な決裂は、1913年9月のワイマール大会で起きた。