うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ホンマルラジオと、UAの「買い物ブギ」と、『分析家の態度と役割』(治療の行き詰まりと解釈より)

 今日は、体調を崩し、皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
沢山用事がありましたが、自粛してゆっくり休ませていただきました。



 ギターの調整が出来たとメールで連絡を頂きましたが、体調が戻ってから行かせて頂こうと思っています。
丁寧に写真まで送ってくださりありがとうございました!
 きれいになっていて、ギターも喜んでいる感じがしました。


 

親分の友人のテディベア作家のみゆっちさんが、ホンマルラジオのDJになって第8回目の収録があったようです!
こちらです⇒http://honmaru-radio.com/miyuti08/
 大須探検隊と称して、大須商店街で頑張っておられる方々をゲストに、頑張っています。
親分曰く、ちゃんと喋れるんだ! みなさん親分にだけは言われたくないですよね!wwwwwwww


 


横になりながら、ユーチュブを見ていたら、UAの「買い物ブギ」にはまってしまいました(笑)大阪人というのが個人的に(笑)いいですね!いい味出されているので、元気ななったら、自分なりにアレンジしたくなりました。
こちらです⇒https://youtu.be/2UMFHnklBL0





だらだらと横になっていたので、少し前に、自分の勉強用に打ち込んでいたものをアップさせていただきます。
福祉職にも、胸に痛く、また本当に考えないといけない個所ですね。
 自分のデマンドだけで仕事をしようとしている人間がいかに多いか.......。
仕事とはニーズに応えることだと思うのですが.........。


分析家の態度と役割 (治療の行き詰まりと解釈より) 
 分析家の患者に対する役割と態度とを明らかにしようとして、二種の見解が推奨されてきた。一方は、われわれあは分析を単に探索と考えるべきであるというもので、治療的期待や欲望を持ってアプローチすべきではないというのはフロイト(1916−1917)の金言である。この見解は少なくとも部分的には、欲望を持たずに患者にアプローチする必要が分析家にはあるというビオン(1970)の発言により支持されている。もう一方は、何人かの分析家(Money-Kyrle 1956、Gitelson 1962、Langs 1976,Sandler 1976)が指摘している見解である。すなわち、患者に対してしばしばとられる態度はおおむね母性的なものであるというものである。ビオン(1964a)の勧める夢見る(reveie)態度とか、ウィニコット(Winnicott 1956)の一次的母性的没頭(primary maternal preoccupation)も、母親が本能的に乳幼児に対してとる役割に関連している。
 フロイトにより記述された外科医的なアプローチも、分析医が母親代理として没頭することも、ともに不適切であると、私はいつも感じてきた。どちらも分析の間中、完全に開かれた状態でいることに気をつける代わりに、患者に対してある特定の方向をもった役割をとってしまう危険がある。分析家は転移を通して、母親や乳児だけではなく、多くの役割、例えば、良い役割、悪い役割、あるいは可もなく不可もないやくわりをよくとらされるものである。それゆえ私は、1961年エジンバラにおける「精神分析の治療因子」と題するシンポジウムにおいて、以下のように述べたパール・キング(King 1962:225)と同意見である。


精神分析の治療過程に対して分析家のとる態度が、患者への態度や分析関係の扱い方を決定する。……
分析家の患者への関係は私の見解では独特なものである。……それは親子関係をもくろんだものではない。』


 彼女は続けて、「私はときどき分析関係というものは心理的な舞台で、そこでは患者が分析家である私に無意識に割り当てるすべての役を演ずるべく義務づけているように感じる」と述べている。新奇な役を演ずるのは分析家の願いなのではなく、患者が分析家に割り当てた役に気づくようにしてあげるが願いであると彼女は明言している。私はこの定式化に全く賛成である。反対に、分析家があるひとつだけの役だけ引き受けて行動化(act out)するようにしむけることにもし患者が成功したならばその治療は行き詰る。
 私はある固定した役割を引き受けることをよいことだと思わないし、逆に公平無私な態度というものもよいと思わない。患者との関係をひどく損なうことなしに、われわれの欲望や意図を抹消すことは不可能だと思う。ある患者の分析、あるいはある研修生の教育を引き受けるとき、実際のところその患者に徹底的にかかわり、彼を理解し、助けるように努めることが期待されているし、われわれはその気になっているものである。しかし、われわれのこの態度や意図を完全に分析しておくことは必須のことである。分析を妨害し、また患者に混乱を起こすものとして感じられるものに、われわれの欲望や期待がある。それは治療をうまくやりたい、治療においてわれわれに満足を与え、間接的にわれわれの治療能力への満足を高めてくれる患者を持ちたいという、われわれの自己愛的欲望である。周知のように、患者がよくなることに対するわれわれのごく当たり前の満足ですら、しばしば当の患者には疑われるものであり、陰性治療反応としての重大な要素である。そうした患者の投影と、分析家の自己愛的態度の名残として患者が正しく認知しているものとを区別するのはときに非常に難しいが、前述の自己愛的ニーズにより分析家が患者と行動化を共にし、個人として巻き込まれれることがあることもよく知られている。この経験は患者のかなに受け入れられているとか、世話をされたいという感情ではなく、分析家に誘惑されたいという感情を生み出し、より深いレベルでは孤独感や拒絶された、あるいは誤解されたという感情を生み出し、分析の行き詰まりや悪化につながるのである。
 分析家のさまざまな意図は、その患者の精神病理の性質が、逆転移としての無理な頑張りを生み出しやすいものであるとき、特別に危険なものとなる。重篤な外傷を受けた患者は分析状況において過去の外傷状況をしばしば再現しがちであるが、彼らは、特に分析家を無意識的な共謀関係に引き入れようとする。彼らは、自分が過去において被った恐怖体験について分析家が正確に知っていなければならないと固執し、その経験を激しく分析家に投影する。当然のことながら、この状況は分析家にとって非常に苦しいものである。こうした状況が、分析家にとって我慢できないものとなると、分析家は「修正治療体験」なるものを生み出すことによって、それはよりよい環境を探す助けになるとか患者が過去に経験したよりも心休まる対象になると理屈づけて、一種の理想像としての患者と共謀しようとすることがある。そのような努力は分析過程を破壊し、起こっていることを言語化したり、患者がそれに直面するのを手助けしようと努力する過程を破壊する。
 私の経験では、外傷を受けた患者が過去の経験を再現せざるを得ないと感じる理由が誤解されるのは、莫大な転移上の要求が分析家に伝わるからである。私が見る通り、外傷経験に関して考慮されるべき最も重要な事実のひとつは、場合によってはかなりの期間、患者は自分ひとりですべてに対処しなければならなかったということである。しばしば患者は、否認、分裂機制、離人といった極端な形の防衛反応によってのみ何とか生き延びてきたのである。それゆえ、患者が思い切って分析家に治療を求めた際、自分ではとても耐え難い恐ろしい経験を分かちあってもらうことを、彼は望んでいるのである。無意識的に患者は分析家を強力な投影によって自分の経験のなかに引き入れようとする。しばしばそれはあまりに暴力的であるため、分析家自身や、彼の仕事への攻撃のように思われるほどである。これはどのような分析家にとっても耐えるのが難しい苦しい状況であり、ここで修正体験を提供しようとする過ちを犯さないときでも、分析家が陥りやすい第二の反治療的反応が待ちかまえている。それは患者のこうした投影を、助力者としての治療者の崇高な努力へのサディスティックな攻撃であると解釈するのは誤りである。これがおこなわれたときも患者は拒絶されたと感じて引きこもる。分析家は手を引きたいのだ、私に巻き込まれることに耐えられないのだと患者は恐れる。その結果、強烈な投影がつのり、状況はますます悪化する。分析家に自分と同じ経験をさせることにより、患者は自分の経験を分析家と分かちあいたいと思っていることを指摘すると同時に、患者の不安を正しく解釈するという困難な課題に成功しえたときのみ、患者の投影の強烈さは徐々に低減する。