秋の空と、入院患者負担の居住費、値上げを検討…厚労省と、『夢幻能に見る暗黒の衝動と鎮魂』(世阿弥の芸術論・梅原猛より)
ショート利用者さんの変更があり、親分と昨日と今日の夜勤を代わりました。今日の早朝、朝食の準備をしながら、食堂の窓のカーテンを開けると、綺麗な空が見えました。斜めですが(笑)
そろそろ色んな書類を作成しないといけない時期になってきたなと思っていたら、共同生活援助の休日の補助金申請の書類が送られてきました。一時は4市作成しないといけない時期もありましたが、今は2市だけになったので、脳みそが小さいおっちゃんには丁度良いかもです(笑)
帰宅後、メールチェックした後、ネットののニュースを見ていたら下記のニュースがありましたが、何のために消費税を上げたのでしょうか?(こんなこと書くと何もわかっていないと馬鹿にされることが多いですが(笑))自分たちが行政からお金を頂くときは、めんどくさい書類を沢山書いて、偉そうに言われても100%もらえるわけではないのに(笑)あちらさんは、ハッキリした計画書を公開もしないで(収支予算書・収支決算書等)平気でこんなことするんですよね(笑)
平成30年度から、障がい福祉の制度も少し変わりますが、こちらにも影響があるのでしょうね?大枠は見る事が出来、確認させて頂いていますが、悪い事ばかりではないのですが、この様なニュースも時々目にするので、非常に気になりますね。先日は、家事援助の報酬を下げるようなニュースもありましたね。
本当に経済的に困っておられる方々には、手厚くお願いします。
療養病床に入るには、沢山のチェック項目があり、障がいをお持ちの方にはハードルが高い時もあるので、本当に心配しています。
入院患者負担の居住費、値上げを検討…厚労省
読売新聞 10月12日(水)7時40分配信
厚生労働省は、入院患者が負担する光熱費と水道代にあたる居住費を値上げする検討に入った。
公的医療保険の給付を抑える狙いがある。療養病床を利用する65歳以上を対象に、現行の1日320円から370円への引き上げを12日に開かれる社会保障審議会の医療保険部会に提案する。
長期療養のための療養病床は住まいの機能を持つとして、入院患者に居住費の負担を求めている。介護施設である老人保健施設の相部屋では1日370円と設定されており、厚労省は、それに近い機能を持つ療養病床も同等に見直す必要があると判断した。
同部会では、現行で居住費の対象外としている65歳未満や比較的軽症の患者に負担を求めるかも議論する。
入院患者の自己負担を巡っては、1食分の食事代を15年度までの原則260円から、16年度と18年度に100円ずつ上げることが決まっている。
最終更新:10月12日(水)15時34分
久しぶりに、梅原先生の本を読ませて頂きましたが、精神分析的な箇所があったので、アップさせて頂きました。
この箇所を読ませて頂いていると、能というのは、無意識の部分をえぐりだしているのでは?と思いました。
『夢幻能に見る暗黒の衝動と鎮魂』
〜夢幻能において、シテはあくまで死者の霊である。このことは、どれだけ強調されても、強調され過ぎることのない能の特徴のように思われる。いったい、死者が主役をなし、自由に動き回り、自由に話しまくり、生者はいつも、その死者の霊の話を聞くだけの役として登場するような劇の形がどこにあるのか。生者がシテである劇が、現在能として狂人の能と、同じ部類に入れられていて、誰も怪しまないような生に対する認識の上に立つ劇がどこにあるというのか。舞台の上に生彩を放って荒れ狂う死霊に対し、何と生者の色あせて見えることであろう。私にはここに、中世という時代のもつ、不思議な宗教性があるように思われると共に、世阿弥の心に隠れた人間にたいする強い絶望のようなものがのぞいているように思われるのである。
しかも死者たちは、安心して墓場の中で眠っているような死者ではない。大木は生きているときには絶望のあまりに、死んだり殺されたりした死者たちであるが、今なお彼らが絶望した現世に執着は残っていて、彼らの生の思い出を示すものに、その死霊はまつわりついてさまよっているのである。能の場合、この死者の霊のまつわるついているものが大切である。なぜなら死霊は、まさにものにまつわりついて、出現するのである。しかも能において、生きた霊をもつものは、人間のみでなく、動物も植物も、人間と同じような霊魂をもち、その霊は、彼らが死んだ後に、人間の形となって現れることさえあるのである。世阿弥の世界は、このような霊の汎神論とでもいうべき世界なのである。ヨーロッパ人が、それをアニミズムというのにたいし、能勢朝次氏などは、しきりに弁明を試みているけれど、私はやはりアニミズムでがないかと思う。現代人たちは、純粋な物質を存在するものも代表者とみて、一切の存在を物質の相においてみる存在論をもっぱら採用しているので、人間はおろか、動物や植物や、天地自然までに生きた霊をみる存在論を、アニミズムといって原始的な未発達な考え方のように思うが、このような生命を存在するものの代表者として、一切を物質にみる存在論と同じような権利をもっているはずである。このような存在論は、日本の古くからあり、神道に現れ、密教にうけつがれ、日本文化の深い根底に存在するものとなっている。世阿弥の世界もまさにそのような世界であり、一切のものが背後に陰影にみちた生ける魂をやどしている世界なのである。
普通、このような深い魂の秘密は、あらわになっていないのである。この魂の秘密をかぎ出すには特定の人が必要なのである。能には、ワキとしてたいていの場合、諸国一見の僧が登場する。諸国一見の僧は、二重の点で、霊の世界をみるにふさわしい資格をもっているのである。彼は僧であり、僧は何よりも霊の世界の探求者なのである。特に彼は、由緒のある死んだ霊のことについて並々ならぬ好奇心をもつのである。しかも彼は僧であると同時に旅人なのである。旅人は日常的な俗な世界から解放された人間である。このような日常性からはなれた人間の眼にのみ霊の世界は姿を現すのである。アイの名で登場する里人には、霊の世界がみえないのである。
霊は、まず多く土地の人のかたちをとって旅僧の前に姿を現す。彼は何げない表情でかつての自己のことについて語るけれど、いつのまにやら、三人称で語られているはずの物語が一人称となり、何げない日常人の姿を下霊の秘密な心の影が、旅僧の心に大きな疑いをおこすとき、霊は消えていくのである。こうして能の前場は終わり、霊がその真実の姿を現す後場にうつっていく。
霊の裸の姿の何というすさまじいことだろう。愛欲、嫉妬、絶望、怒り、恨み、妄執、罪、争い、苦悩。人間の中にあるあらゆる暗黒の衝動が荒れ狂い、霊の心をそのもっとも深いところにおいて動揺させているのである。この荒れ狂い、猛り狂う霊の乱舞が、能の見せ場であろうが、このように霊が荒れ狂い、猛り狂うものとなるとき、ワキの僧は単なる観照者となり、そして荒れ狂う霊の鎮魂者となるのである。私は、このシテが狂えば狂うほど静かになっていくワキの立場は重要だと思うのである。なぜなら、そこには荒れ狂う生の激情をあらわす精神、つまりディオニュソス的といわれるべき精神と、静かにものの真相をみようとする純粋観照の精神、アポロン的ともいわれるべき精神の結合があるからである。ニーチェは、狂乱にみちた生の激情を示すディオニュソスの精神と、静かな観照のよろこびにひたるアポロン的精神の統一をギリシア悲劇の中にみたけれど、私は、世阿弥に能においてもこのような二つの矛盾した精神の統一があり、それが世阿弥の能に深い人間理解と同時に静かな落ち着きをあたえているように思われる。私は世阿弥ばかりか定家の中にすでに矛盾した二つの精神の結合をみるけれど、ここではこの美の伝統の統一について語るべき余地はないのである。
世阿弥の芸術論のことを考えるとき、私はいつも金閣寺のことを思うのである。世阿弥の保護者であった足利義満によって建てられた金閣寺は、三層の建物である。一層は王朝風の寝殿造り、二層は武士風の書院造り、三層は禅宗風の建物であると言われているが、私はこの三層の奇妙な配置の中に、義満の文化統合の原理を見るのである。つまり、基本に王朝精神をおき、その上に武士精神と禅宗精神をおく、三重の精神構造は、義満の文化統合の原理ばかりか、政治統合の原理であったかもしれない。世阿弥の三体論は、その精神構造において、義満と同じなのである。一層に幽玄の女体を、その上に軍体と老体を置いているのである。たしかにその点で、世阿弥美学は義満美学と同じものであったろうが、世阿弥には、幸福な政治的支配者のもたない独自な美の世界があった。それは、おそらく、狂人と鬼と死霊を主人公とした闇の煩悩の荒れ狂う世界でもあったが、そのような衝動のはげしさが、ここでは静かな観照の精神と共存しているのだ。世阿弥においては、まだ明らかにされねばならない多くのものがある。そしてそれを明らかにするのは、同時に、日本文化そのものを明らかにすることなのである。