うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

神戸館年末チャリティー絵画展のはがきと、ラカン:機知と洞察の「ひらめき」/フロイトの初期著作群への「回帰」


 年末に向けて、神戸館年末チャリティー絵画展のはがきが出来上がりました。(長澤様ご指導の下)
気が付けば、もう10月11日ですね!
あっと言う間に12月になってしまいそうですね!
おっちゃんが出させて頂くものは、大分集まりましたので、お楽しみに!

 神戸市民館祭りのプログラムも持って来て下さって、こちらはいよいよですね!気前のよすぎるおっちゃんは参加させてもらえません(笑)が、皆さん楽しみにされているようです!お天気だと良いですね!

 今日は休みでしたが、朝は法務局に行き、帰って来てから、うたたねの清掃を月に一回か二回業者さんに頼むことにしたので、その打ち合わせで、明日が夜勤でしたが、今日に急に変更になったので、今から夜勤に行って来ます。ややこしい単語は後日、説明させて頂きますね!
調べても面白いかも(笑)

 法務局での待ち時間に読ませて頂いた箇所のアップをさせて頂きます。
フロイトを読む』
『機知―その無意識との関係』
フロイト以後》
ラカン:機知と洞察の「ひらめき」
フロイトの初期著作群への「回帰」
 1950年代の初めに、ジャック・ラカンは、精神分析者たちにフロイトへの回帰を訴えた。この回帰とは何を意味したのだろうか。実際には、フロイトの著作全体の読解ではなく、無意識を言語の周りに分節化させるフロイトの初期の理論的著作に戻ることが問題だった。つまり、『夢解釈』、『日常生活の精神病理』そして『機知―その無意識との関係』である。1900年から1905年にかけて書かれたこれら3個の本は、ほぼ同じ時期に出版され、無意識の偽装された表現としての言語を特に強調している。ラカンが自分の主たる諸概念を引き出したのはこの3部作、特に機知からで、彼はそれに対して、「真の精神分析的な概念の地位」を与えた(Roudmesco and plon 1997)
.
 ラカンの足取りにはいくつかの段階があった。彼は1953年に「ローマ講演」で意味への回帰を推奨することから始めた。「フロイトへの回帰の意味は、フロイトの意味への回帰である」と、機知に富んだ言い回しによって彼は宣言した(Lacan 1955:405[2004:110])。意味を強調することによってラカンは、無意識についての精神分析的体験を、彼がその独創性において最も純粋にフロイト的なものと見なしたものにおいて復興しようとしていた。なぜなら彼は、彼の同時代人たちが「パロールの意味」を放棄してしまったとみなしていたからである(1953:234[2004:37])。


言語として構造化された無意識
 早くも1956年に、ラカンは無意識の経験の中心を、言語科学の貢献に照らしたその象徴的次元に、特にスイスの言語学者F・ソシュールde Saussureが導入した「シニフィアン」と「シニフィエ」という概念の区別に据えた。この観点によってラカンは、「シニフィエに対するシニフィアンの優位性」を強調することができた。これは、『夢解釈』に由来する主な教えのうちのひとつであると彼に思われた命題である。事実、自由連想法を適応することで思考の連鎖に少しずつ近づくことになり、その思考の連鎖は今度は、パロールの連鎖へと連れ戻す。この技法によって、分析者は失われたシニフィアンの跡を同定することが可能になる。「パロールの先に精神分析的経験が無意識の中に発見するのは、言語の構造そのものである」(Lacan 1957:494-495[2004:139])。構造的(erabpration反芻処理)の中で最も根本的であるとさえ見なしうる。たとえそれが、この命題はラカンが彼の教育の当初から命じ続けたフロイトへの回帰の意味を、前提としていると同時に具現化しているからに過ぎなくても」(1985:17)。

 ラカン精神分析の仕事、特に言語に関わる仕事は、精神分析サークルをはるかに超えて関心を呼び起こし、今日もなお呼び続けている。しかしながら、根本的な事柄についての意見の相違が極めて早くから、ラカンと国際精神分析協会(IPA)に所属する彼の同僚たちとの間で生じた。これらの食い違いによって、1953年の分裂に帰着し、1964年にラカンは「一人で」フロイト精神分析学派を設立した。彼は1980年、亡くなる少し前にこの学派を解散する決心をした。以来、ラカン派の運動は数多くのグループへと分裂した。
 技法の見地から私は、1953年にラカンが推奨した「フロイトの回帰」は、神経症と言語的コミュニケ―ションへの注意を、フロイトの1915年以降の仕事を顧みずに、特に焦点としていたと考える。まさにそれらの仕事でフロイトは、例えば抑うつ患者や精神病患者のように、言語的コミュニケーションや象徴作用の障害を示す患者の精神分析的な治療の可能性を探求している(J-M.Quinodoz 2000,2002)。
 さらにラカンはその後ますます、ただ被分析者のパロールのみに注意を払い、何よりも患者の言説の象徴的な意味に気づく「ひらめき」のみを考慮するようになった。彼はそれを「シフィニアンの働きをする無意識における穿たれた穴」と名づけている。解釈の価値を持つ掛け詞を使用し濫用する危険を冒して、この技法はラカンを、セッションを短くし、転移と逆転移の反芻処理(ワークスルー)に要する時間を考慮しはしないし、それには程遠いと考えている。そこで問題なのはゆっくりとした過程であり、それは徐々に広がり、最後まで尊重されるべきリズムに従ってそこで展開するには、最も多くの場合、古典的な精神分析的設定の厳密さを必要とする過程である。
 短縮されたセッションの実践に結びついた技法的な問題は、決してラカン派の分析者と国際精神分析協会(IPA
に所属する分析者との間の唯一の相違点ではない。最近D.ヴィドロシェWidlöcher(2003)が指摘したように、無視できないその他多くの相違点が、特に逆転移を用いることに関していまだに残っている。その用法はラカンによって激しく拒否され、彼を援用する分析者は今日でも拒否している(F.Dupare2001)。

精神分析者の候補生の訓練に関しては、ラカンIPA内で組織化された養成の仕方に対して徹底的に反対した。特に彼は、「予備選考」と先にいわゆる「訓練分析」という個人分析を受けることに反対した。彼はヒエラルキーのある組織と同じように候補生をプログラムのさまざまな段階で評価することは、同僚たちを永遠に服従の状態に置いていると見なした。彼は、1964年に自分の学派を設立した際、それがいかなる認可も禁止もしないし、分析的治療の責任は、精神分析者自身にもっぱら関わる事柄であるという原理を主張した。彼の寸言「精神分析者は自分自身もにをよりどころとする」の意味は、そこに由来する。自分自身以外のいかなる評価も拒むことは、結果的に、ラカンに準拠しつつもどのような訓練を受けたのかを知られずに、自分自身を「精神分析者」と呼ぶ多くの人たちを増した。
 ラカン派の勢力範囲に属している精神分析者には、フロイトによって設立された国際精神分析協会(IPA)への復帰を望む人もいる。しかしながら私には、理論的・技法的な立場が両者で大きく隔たっていると思われる。


国学派:原始的な象徴使用から象徴的な表現へ

神経症をこえた治療の拡張
 英国学派に属する精神分析者は、象徴利用の問いについても、別の視点から取り組んできた。これによって、言語化は高度に発達した象徴使用の一形式だが、言語的なコミュニケーションに困難のある患者と精神分析的な治療を行うことが可能になった。そのように、精神分析的な治療は自分自身や他者と言葉によるコミュニケーションが可能な神経症患者に限られず、具象的思考が主たるものだが反芻処理の仕事のおけげで、自身の象徴機能や言語的コミュニケーションの能力を発達させるようになる患者のためのものである。
 早くも1916年にE.ジョーンズは、フロイトが『夢解釈』(1900a)で表明した観点の延長線上に象徴使用についての問いを再び取り上げた。ジョーンズは、意識的な象徴使用を無意識的な象徴使用から区別し、象徴の創造を精神内界の葛藤の結果として、そして象徴自体を抑圧されていたものの代理として考えた。
 そのすぐ後でM.クラインKleinは、象徴使用についての問いに、新しいアプローチを導入した。それは、彼女の子供との治療と、セッションでの子供のプレイを無意識的葛藤の象徴表現として理解することから出発していた。4歳の自閉症児ディックDickの観察に基づく論文「自我の発達における象徴形成の重要性」(1930)の
中で1930)M.クラインは、象徴形成が特異的に制止される可能性と、制止が後の自我の発達に重篤な影響があることを例証している。彼女は、象徴化の諸過程が生じなければ、全ての自我の発達全体が停止されると結論づけている。そして彼女はこの制止を、母親の身体に向けた幼児の攻撃的な空想と結びついた過度の不安および罪責感の増加によると考えている。

原始的な象徴作用と高度な象徴作用の間の移行
 象徴形成の過程が幼児の発達期に制止されうるという事実によって、ハナ・シーガルHanna SegalとW.R.ビオンBionは、M.クラインが始めた研究をさらにに進めることになった。その結果彼らは、原始的な形式の象徴使用とより発達した形式の象徴使用の区別を確立しただけでなく、こうした2つの形式の象徴作用の間の移行の諸過程も、妄想分裂ポジションと抑うつポジションという概念を考慮に入れて明らかにした。私たちはこれらの観点をより詳しく、フロイトが「無意識」(1915a)という論文において統合失調症者の言語の諸特徴に当てた研究に続く展開を検討しつつ論じるつもりである。
 シーガルとビオンの仕事、そしてH.ローゼンフェルトHerbert Rosenfeldの自己愛転移についての仕事は、精神病的・自己愛的・そして境界例の患者の精神分析的な治療の発端だった。私たちは今日、神経症患者よりもこのような患者がカウチの上にいるのを目にすることが多い。