うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『さよならの夏』と『治療者の非侵入的な有用性』(患者から学ぶより)


 今日は夜勤なので、日中は事務仕事させて頂いています。
給与計算で頭が腐ってしまったので(この二ヶ月ミスが続いているので.....)前々からアレンジしたかった『さよならの夏』を有名なフレーズだけアレンジしてみました。30分くらいでやったので、完成はされていませんが(笑)弾いていて気持ちが良いので、徐々に完成させていきたいと思っています。今回は楽譜を使ってみましたが、ピアノ用のものなので、カルカッシ風にしています。


 『患者から学ぶ』から、暫くアップさせて頂きます。
この箇所は、ウィニコットを読んでいないと舌圧子の事等分かりにくいかもしれませんが、そこを省いても、読んでほしいなと思っています。

 最後の赤字の箇所は、いつも心に置いておきたいと思いました。
たとえ周囲が、自分の存在ばかり主張しようとも(笑)


治療者の非侵入的な有用性
 患者たちはその機会を与えられたときに、治療者と関係していく彼ら自身の型を見出します。この意味では、子どものコンサルテーションでのウィニコットの診断用舌圧子のしようと患者にとって治療が利用できることとを比較してみることができます。もし幼児が、幼児の視野のなか、そして、手が届く範囲内に置かれている、見なれない(そして興味を引くだろう)対象に気づき、見出すための「ためらいのとき」をもつことが許されるなら、この対象は関心interest-valueを備給されるようになることを彼は繰り返し描き出しました。しまいには、自然にそれに手が伸ばされます。彼が使った対象は、たまたま輝く診察用舌圧子だったのでした(Winncott 1958:第4章)。
 幼児がこの対象を見出すようせかされないなら、その対象は、それを探求したり、遊んだりしようとする幼児の心の準備にうまく合うような関心とか意味合いを備給されるようになります。その舌圧子は、吸われたり、かまれたり、母親に「食べさせ」られたりしましょうし、叩くのに使われたり、投げ捨てられたり、母親が取ってくるなどに使われましょう。個々の幼児がどんなふうにこの対象を使うかは予測できません。ただひとつ確かなことは、幼児の舌圧子の使い方はそれがそもそも意図されている使い方に決して限らないことです。
 一方、もし、子どもがせかされるなら、この対象は幼児から備給される意味合いを獲得しません。それにかわって、その対象は大人の世界に属している異質な対象のまま(もしくは、異質な対象となってしまい)、見つけ出されて幼児の空想や遊びの世界にとり込まれる対象にはならないのです。ですから、舌圧子を幼児の口に挿入しようとするいかなる試みも、この侵入しようとするいかなる試みも、この侵入してくる対象を受け入れることへの抵抗に終わります。この抗議の強さはその子の健康さの尺度と見ることができます。健康度の低い反応は、舌圧子を受身的な従順さか名ばかりの抵抗で受け入れられることでしょう。
 もし、治療者が、舌圧子のときのように、「侵入してくる対象」として体験されることを避けたいなら、患者自身の時間のなかで、関係することと理解することが現れてくるよう待つ心の準備をしておくことが大切です。このことは、患者の内的世界に属している意味あいを患者がこの知らない人物に備給することを通して転移が発達してくるのを待つこと、を含んでいます。治療者は患者から「見出される」ためにそこにいるのです。しかし、もし、治療者の患者との過ごし方が、過活動すぎる侵入的なら、解釈や治療者の存在はそれぞれが患者にとって侵入的になり始めます。
 もし、治療がその始まりから治療者からの最小限の影響とか先入観によって始められるなら、本来そうあるべきことなのですが、治療過程の進展はもっとすぐれた患者の創造物になりましょう。そうするために、治療者は、この治療空間を保つという目的と調和しながら、(一個人としての)自分自身を中立的に、できるだけ目立たないようにし続けることを試みますし、それゆえ、その患者の治療的要求に沿うどんなやり方でも使われるような自由であろうとします。