うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

 芸術の可能性・『茶の本』岡倉天心著・立木智子訳より


 早いもので、気が付けば8月に入っていました。 
ショートの方の入りが遅くなったので来られるまでに、事務仕事を大分終わらせることが出来たので、ショートの方・ホームの方とゆっくり話などさせて頂きました。(今日は事務で入っていましたが....)入浴介助は大好きな仕事の一つです。裸の付き合いは、身体に障がいをお持ちの方々の施設で働かせていた時も、入浴介助時に、お互いの事を忌憚なく話すことが出来ていました。その時の利用者さんとは、いまでもお付き合いさせて頂いています。

 急に話が変わりますが(笑)先日大阪で、弟に京都時代は捨てるようなものばかり集めていたのが、自分には理解できなかったと言われました(笑)良かったことも、悪かったことも話してくれたので、親分的には良かったのではないでしょうか?

京都時代は、小金があったので(笑)平気で60万円する俑を現金で買ったりしていましたが、今はお金がないので、服も道具も1,000円前後で十分楽しめます(笑)美術館を作りたいなら話は別ですが(笑)

 恐らくこの写真だけ見たら、なんと贅沢しているんだ!と叱られそうですが、金額を知ると皆さん言葉がなくなります(笑)まあ、観る人が観れば価値は分かりますが(笑)
 下記の天心先生の言う様に、見る眼がない人たちは、お金があれば金額と能書きで購入されるのでしょうね......。魯山人先生は、金持ちは見る眼がないと言い切っていましたが、そうでもない気がします。
 ただ単に、大阪人としては(負け惜しみ半分で(笑))良い物を安く買う事が楽しいことです(笑)

 値段の高い、安いではなく、良い物は本当に心に響きますし、気が引き締まります!

 クライン派の発展を読み続けていますが、精神分析を目指される方々の教科書のようなので、こちらでアップしてもつまらないと思うので早く読んでしまおうと思っていますが、600頁は中々進みません(笑)
 既に普通の本?では一冊読み終えているページに来ていますが.....。


茶の本岡倉天心著・立木智子訳
第五章 芸術の鑑賞
 芸術の可能性―世評や伝統の束縛から飛翔してこそ芸術に未来はあるー 〜我々の芸術鑑賞力が洗練されればされるほど、今まで理解できなかった美の表現をも楽しめるようになるでしょう。しかしながら、我々はこの宇宙の中で我々の姿を見ているだけなのです。この宇宙とはつまり、われわれの特異な性質が我々の知覚を支配しているのです。つまり茶人であってもそれぞれの鑑識眼の尺度にあったものだけを収集していたのです。
 これに関連して、小堀遠州についての話をしましょう。遠州は弟子たちから、彼の収集にあってのその選択のセンスの良さをほめられておりました。弟子たちは次のようにほめました。「貴殿が選ばれた品々はすべて、誰もが賞賛せざるを得ぬものです。それは、貴殿が利休様にまさる素晴らしいセンスをお持ちということを表しています。というのも利休様がお選びになった品々は千人に一人しかわからないようなものばかりでしたから。」
 すると、悲しげに遠州は答えました。「それは、私がいかに凡庸であるかを物語っている。偉大な利休は己に訴えかける作品のみを敢えて愛そうとしたのに対し、私は無意識のうちにも大衆の趣味に媚びているだけなのだ。さすが、利休は千人に一人見る偉大な茶人であった。」
 大変残念なことは、今日の芸術に対する表面的な熱心さが、本来の人々の感情に根差していないことです。今日のような民主主義の時代にあって、人々は自分自身の感情を顧みずに、世間一般に一番良いと思われるものを求めます。人々が欲しがるのは、高価な物であって、洗練された作品ではなく、はやりのものであって、美しいものではないのです。一般大衆にとっては、工業化社会の産物である写真入りの雑誌の方が、イタリア初期や足利時代の巨匠たちの作品よりも、はるかに消化しやすい芸術の楽しみ方を教えてくれるでしょう。彼らは単に感心したふりをして眺めているに過ぎないからです。
 今日では作品の質よりもむしろ、作家の名前の方が重要です。幾世紀も前に、ある中国の評論家は「人々は耳でもって絵を評価する」と指摘しました。このように今日では真に作品を鑑賞する力を失ってしまっているのです。今日どこを向いてもえせ古典主義に対し嫌悪を抱く者に出会いますが、彼らは真に鑑賞する力を持ち合わせていないからです。
 もう一つよく間違えるのは、美術と考古学とを混同することです。古い物を尊ぶことは人間の持つ重要な特質でありますが、我々はもっとその力を磨いてゆくべきなのです。かつての偉大な作家たちは後世のために啓蒙への道を切り拓いてきたのですから、大いに敬意を払われるべきです。何世紀にも批判に耐え、今なお栄光に包まれている事実ですら、尊敬に値します。しかし、これらの大家の功績を単に古いからといって高く評価するのはばかげています。にもかかわらず我々は歴史的な共感でもって、美的感性を踏みにじっています。作家が安心して墓に横たわるようになると、賞賛の花を差し出すといったぐあいです。
 進化論が盛んな十九世紀においては、種を第一に考え、種における個を忘れがちです。収集家は単にその時代や流派を説明するために作品を集めようとするのであって、一つの傑作がある時代や流派の数知れない凡庸な作品よりも、よほど多くを我々に教えてくれるということを忘れてしまっています。我々はあまりにも作品を分類しすぎて、実際に作品を味わい楽しむことを忘れてしまっています。多くの美術館ではいわゆる科学的展示方法が美的展示方法にとって代わり、そのことが致命的となっています。
 いつの時代の生活様式においても、その時代の芸術的主張を無視してはなりません。今日の芸術は、真に我々が生きる時代に所属するものであり、我々自身の反映でもあります。今日の芸術を非難することは、我々自身を非難することでもあるのです。
 我々は「現代に芸術はない」と言いますが、いったいそれは誰の責任なのでしょうか。古いものに対してあれほど熱狂的になるのに、我々自身の可能性に目を向けないのは、実に悲しむべきことです。ああ、何と哀れな苦闘する芸術家たちよ、そして冷たい軽蔑の影の中で疲れ果てた魂よ!
 過去が現代文明の貧困さに憐みを持もって見るかもしれないし、将来は今日の芸術の不毛をあざ笑うでしょう。我々は生活の中の美しいものを破壊することで、芸術を破壊しています。
 誰か偉大な仙人が現われ、社会という幹で、力強い琴を作り、その絃が天才の手に触れて鳴り響くのはいったいいつのことでしょうか。