うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

環境決定論―達成困難としての「本当の自分」 北山修


今日は、夜勤明けで休みなので、思い切って出かけようと思っていたら
送迎車がエンストで来てくれとのこと......。予定を切り詰め(どうせ眠くて遠出は無理でした(笑))近場の温泉に浸かりに行っただけで帰って来ました。
 コーヒーの美味しい店は簡単に探せますが、紅茶の美味しい店は中々なく困っていたら?図書館に静岡の紅茶の美味しい店が出ている本があり、迷わず借りました(笑)
 まあ、今日は頭が回らなかったので、時間がある日にでも行きたいと思っていますが、いつになるやらです(笑)

 最近、行きたいなと思う展示は、金沢21世紀美術館が多い気がしています。

 明日からは7月ですね!一年の半分が過ぎてしまいました。
去年はサリヴァンを読ませて頂いていましたが、今年はウィニコットで一段落したら、また、メラニー・クラインに戻りたいと思っています。


 今日は温泉に浸かって、マッサージ器をやって、休憩室で横になりながら、ウィニコットを少しだけ読ませて頂きました。
 論文集で読んだことがある箇所を、日本のウィニコット研究者さん達が取り上げてくれているので、理解がより深くなった気がしました。


第二部 シンポジウム
ウィニコットの理論と実際
環境決定論―達成困難としての「本当の自分」
 北山修
Ⅳ ポテンシャルとしての「本当の自分」
〜水や空気のような、そこにあるけれども侵入しない環境が失敗するとき、環境に依存する本当の自己は解体し、精神病性の不安が体験されることになる。または、自己防衛により、本当の自分を抱えるための「偽りの自己」によって、本当の自己は守られることになる。このとき、ラカンJ.Lacan(1901~1981)の鏡像段階論と、鏡としての母親の役割を説くウィニコット理論とを比べることは興味深い比較となるだろう。原初の同一化について見ているところは同じでも言葉が違うことが重要であり、母親の腕に抱えられて実現する自己は(少なくとも最初は)本物なのである。
 管見ではあるが、ラカニアンは、鏡の中の自己像またはイメージとの同一化を自己の虚構であることの起源であると語るが、原初の母親との同一化を本物と見るか虚構と見るかでは、大きな違いがあるように思う。ウィニコットの場合は、本物の母親に抱かれる「本当の自己」を体験した後に、環境の失敗に応じて「偽りの自己」という装いをまとうのである。
 では順調に環境が失敗し、「偽りの自己」による防衛が可能になった後は、「本当の自己」はどこに行ってしまうのか。そこで多くの人びとが考えるのが、社交的な「偽りの自己」の下に、奥に、向こうにあるということであり、ウィニコット自身も二重構造を描いているのであるが、(図1)、それは多くの治療的な誤解を生む。なぜならこのような図式的理解では、「本当の自己」が環境を得て達成される条件付きの「状態」であるという環境決定論が忘れ去られ、防衛解釈により自己防衛を解除すれば奥から「本当の自己」が出てくるという従来からの図式的理解を広めてしまうからである。
 「本当の自己」は環境の保証によって達成されるはずの可能性であり、この状態は誕生直後の「抱える環境」のなかでは「ある」のであるが、環境が失敗した後からは特別な「達成」なのである。だからこそ多くの患者の治療においてはこれは当然視されないわけで、達成困難であり、「本当の自己」の達成は、抱え続けられることという「マネージメント」のあるところでの「退行」という条件付きなのである。
 ウィニコット自身が「本当の自己」を「遺伝として受け継いだ可能性inherited potential」としてとらえたことを生かして、ボラスC.Bollasのようにこれをフロイトの「一次的に抑圧された無意識primary repressed unconscious」と比較できる。そのときわたしが強調しておきたいのは、ウィニコットが描いている「本当の自己」「本当の自分」とは、簡単に「自己実現」の対象になるものではないということである。
「本当の自己」を手に取ろうとすることに、あまり意味がないことを彼はこのように言う。
 「偽りの自己を理解しようという目的がないかぎり、本当の自己という考えを公式化してもあまり意味がない。というのは、それは生き生きしていることの体験の詳細を寄せ集める以上のことにはならないからである。」
 もうひとつ注意書きが必要である。ウィニコット流に言うなら「環境の失敗」のために「本当の自己」がまとまりがなくバラバラで、精神病的であるとき、これを包む適応部分を「偽りの自己」と呼ぶのは″misleading”で不適切である。どっちにしても無条件の自己実現はないし、「本当の自己」に対する「偽りの自己」という表現は、後者が価値がなくて「本当の自己」を求めることを反射的に方向づけるので、注意を要する。重症患者の治療のためには、適応的でたとえ迎合的な「偽りの自己」であっても、「本当の自己」と呼んだほうがいい場合がある。二重構造よりもむしろ、一番防衛的な自己部分があって、その奥にあるはずの「本当の自己」は脆弱で、中核にあるのは「精神病的部分」であるというような三重構造を想定したほうがいい場合も多いのだ。
 日常語で「自分がない」が訴えられる場合、自分が出せないのと、本当に自分がないのとでは大きな違いがあるのである〜