うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

お薄と、第19章 精神分析的設定内での退行より


 今日は、シフトでは休みになっていましたが(笑)事務仕事等もあり朝からうたたねに行っていたら、18時まで現場にいました(笑)
 行くとなんか居たくなってしまいます。職業病でしょうか(笑)
職員には、老害かもしれませんね(笑)
 
 昼食後、ショートの女子達とお薄を頂きに、池ノ原に行って来ました。徒歩でも10分くらいですが.....。

 今日は裏千家の方で、ももちゃんは良く覚えて下さっていて、ハイタッチをしてくれていました(笑)
 本日のお菓子は、何でしょう?と聞いてくれましたが、皆さん小さすぎて分からなかった様だったので、おっちゃんが代表して、ツバメ!と答えさせていただきました。ツバメが空を飛んでいる(生地が水色だったので。水かな?)様を現わした和菓子でした。


 ももちゃんは、一気に飲み干してしまいましたが、かおちゃんは、大事そうにお茶碗を持って、味わいながら飲まれていました。
 おっちゃんも、かおちゃんを見習って、大事に一服いただきました。
今日はちょっと抹茶の量が少なく感じましたが(笑)丁寧に点てて下さっていたので、お皿も、お茶碗もティッシュで(笑)綺麗にしてから、お返しさせて頂きました。
 本当に皆さんここに来ると、おしとやかになられます。不思議ですね。
 やはり、ウィニコットが言う様に、環境設定は支援にとっても大事なんだと、いつも反省してしまいます。
 たまに来ると、自省の機会になってよいですね!

 

 少し前に読ませて頂いたところで、又端折ってしまいましたが、立礼の席で思い出してしまったので(笑)アップさせて頂きました。

第19章 精神分析的設定内での退行
〜しかし疑問が生じる。退行が(たとえばほんのわずかな量でも)生じた時、分析家は何をするのであろう。

 ある人は、素朴にこう言う。背すじをのばして! しっかりして! さあおいで! 話してごらん! しかし、これでは精神分析にはならない。
 ある人びとは作業を2つの部分に分けるが、不幸にも彼らは次のことをいつも十分に認識しているわけではない。

(a)彼らは厳密な意味で分析的である(言葉による自由連想、言葉によ   る解釈、安心の保証をしないこと)。
  そしてまた、
(b)彼らは直感的に行動する。
  ここに、芸術としての精神分析という考えが登場する。
  ある人びとはこう言う。分析できない、だから降参しなさい。精神  病院があとを引き受けてくれる、と。


芸術としての精神分析という考えは、患者の退行に関連した環境適応の研究に徐々に道を譲らなくてはならない。しかし、環境適応の科学的研究が未発達のうちは、その時分析者は彼らのその仕事において芸術家であり続けなくてはならないと思う。分析者は素晴らしい芸術家かもしれないが、しかし(私がしばしば問うてきたように)一体どのような患者が他人の詩や絵になりたがるであろうか? 私は経験から、誰かが次のように言うだろう、と分かっている。これはすべて、個人の初期の発達段階を無視して、初期の発達を環境要因に帰着させるような発達理論に結びつくものだ、と。これは全くまちがっている。
 人間の早期発達においては、ほど良く振る舞う(つまりほど良い積極的適応を行う)環境が、私的な成長が生じるのを可能にするのである。そうすれば、自己過程は中断のない生きた成長の流れの中で活動的であり続けることができるかもしれない。もし環境がほど良く振る舞わなければ、その時個体は侵襲に対する反応に携わることになり、自己過程は中断してしまう。もしこの状態が量的に限界に達すれば、自己の核は保護されるようになる。つまり停止してしまうのである。私が記したようなやり方で環境の失敗状況が修正されるまで、そしてそうされない限りは、自己は新しく前進することは出来ない。本当の自己は保護されたまま、防衛としての迎合の基盤のうえに、すなわち侵襲に反応することを受け入れることのうえに、偽りの自己がそこに発生する。偽りの自己の発達は、本当の自己の核を保護するために工夫された最も有効な防衛組織の1つであり、その存在が結果として不毛感を生じる。個体の活動の中心が偽りの自己にあるうちは不毛感が存在する、ということを私は自ら繰り返して述べておきたい。そして実践では、自己の核が全体的自我の下に全く服してしまう前であっても、活動の中心が偽りの自我から本当の自己へ移行する瞬間に、人生は生きる価値のあるものだという感覚への変化が生じるのをわれわれは見るのである。

 このことから、存在の基本的な原理を定式化することができる。つまり本当の自己から生じるものは、その本性いかんにかかわらず、たとえそれがどれほど攻撃的であっても、本物であると(後には良いものとして)感じられる。環境の侵襲に対しての反応として個体の中で生じるものは、たとえどれほど官能的に満足を得られようと、本物でないもの、不毛なものとして(後には悪いものとして)感じられる。〜


 もう少し前にあった箇所もついでにアップします。

〜精神病的な病は、個体の情緒発達の早期の段階における失敗に関連している。不毛感や非現実感は、本当の自己を保護するために発達する偽りの自己の発達に属している。
 分析の設定は、早期の、そして最早期の母親的療育者motheringの技術を再現する。これは、その信頼性のゆえに退行を招くのである。
 患者の退行は、早期の依存あるいは二重依存への組織化された回帰である。患者とその設定は、一次的ナルシシズムの最初の成功した状況へと融合していく。
 一次的ナルシシズムからの前進は、環境の失敗状況に十分な形で対応できるようになって、その際は、本当の自己を保護する偽りの自己を巻き込むような防衛の組織化を伴わない。
 この限りでは精神病的な病は、患者の退行とうまく噛み合って特殊化された環境が提供されることによってのみ軽減される。
 本当に自己が全体的自我total egoの下に服しているという新しいポジションからの前進が、個々の成長という複雑な過程の点から、今や研究可能になるのである。〜