うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夕食後の散歩と、ピカチュウの墓?と、ガーベラと、本購入と、ウィニコット


昨日は、ショートの方とホームの方が、夕食後、散歩に行きたいとの訴えが沢山出たので、白谷海浜公園に行って来ました。
 おっちゃんは、急な夜勤(変更がありました)だったので、朝から仕事でしたが、体を動かすと、心身ともに軽くなりました。
 夜勤時の晴くんとの漫才は、いつもの如く(笑)21時の消灯時間まで続きました(笑)


 歩いての出勤なので、街の隅々まで眼が行ってしまい、こんなものまで見つけてしまいました。(笑)
 なんかピカチュウの墓みたいですね(笑)
忘れずに持って帰って欲しいです.....。


 夜勤明けで、帰宅したらシンクにガーベラがありました。
親分がきっとひーひー王子との散歩中に、捨てられていたのを拾ってきたのでしょう(笑)
 親分が帰宅したら、生けろというのですが、ちょうど良い大きさの花器がないので、お茶碗に入れて見ました(笑)

 派手な色のは東洋的な物しか持っていないので、バドワイザーの瓶が再登場ですが、絵にしようと思うと中々難しいですね!


昨日、親分と会計をして頂いている職員に許可を得て、本の購入をしました。明日には揃いそうです。
今回、購入させて頂いた本は、

子どものスクィグル―ウィニコットと遊び

クライン派の発展

抱えることと解釈―精神分析治療の記録

ウィニコットの 遊びとその概念

 の4冊です。
読破は、恐らく9月くらいまでかかると思われます。



 精神病は環境欠損病とも言われます。精神分析家と同じように、福祉職も普通の環境(難しい定義ですが)を設定するのが仕事のような感じがしています。


第15章 精神病と子どもの世話
情緒発達の原初的諸段階
〜最初は、個体は決して1つの単位unitではない。外側から見る限り、1つの単位になっているのは環境・個体の組み合わせenvironment-individual set upなのである。外部の観察者は、個体の精神とは特定の設定でsettingがあってはじめて開始されるものだということを知る。この設定の中で、個体は徐々に私的な環境を創造するようになるのである。すべてが順調にいくならば、その個体によって創造された環境は、一般に知覚できるような環境に十分近いものとなっている。そしてそうした場合は、個体は依存から自立へと移行する発達過程における一段階に達するのである。これはきわめて危うい発達の時期であり、ここで成功することが、精神病の点から見た精神的健康を主として基礎づけることになる。この難しい時期こそ、この講演で私が検討したいことなのである。〜
母親が高度に専門化された機能に対して生物学的に方向づけられているという初期においてでさえも、ニードに対する適応は決して完全ではない、という主張も確かにうなずける。完全な適応と不完全なそれとのギャップは、個体の知的過程により処理されるのである。それにより、環境の側の失敗は徐々に許容されたり、理解されたり、容認されたり、あるいは予知されたりさえするようになる。知的理解が、ほど良いとは言えない環境の適応へと変えるのである。このメカニズムの作動に当たって、環境が安定した振舞いをするならば、当然のことながら個体ははるかに好都合な条件に置かれていることになる。安定しない適応は、当てにならないがゆえに外傷的であり、きわめて感受性豊かな一連の適応を時折見せていたとしても、その良い効果をも帳消しにしてしまう。
(貧弱に与えられた脳組織に基礎を置くために)知的な能力が制限されている場合は、あまりほど良いとはいえない環境側の適応をほど良い適応へと変える幼児の能力が低下し、結果として、欠陥を持った人には正常な人たちに比べて、特定の精神病がより多く発症する。並外れた脳組織を与えられた子どもは、ニードへの対応の重篤な失敗を容認することはできるかもしれないが、そのような場合では心的活動の身売りが行われることがあり、臨床的には分裂病的破綻の可能性に結びつく知的過程の肥大が見出されるのである。
 私はここに述べたことが、知的活動とか、欠陥のある人の精神病とかの起源について語りうるすべてである、と主張しているわけではない。しかし、心的活動の問題についてのこのような見方は、心的活動がどのようにして搾取されて精神の敵となってしまうことがあるのかを示す意味で、有用なのである。〜