うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

「遊び」とみーちゃんと花見!

 今日は朝夕の送迎と事務仕事の一日でしたが、夕方男性2名の入浴介助などさせて頂き、帰らせて頂きました。
 取り敢えず、現時点では法人関係の事務仕事だけになり、ほっとしていますが、こちらはこちらで頭が痛くなります(笑)

 朝の送迎時、寄り道をして、滝頭公園の道を利用者さんと走り、最後の桜(もう少ししたら雨が降るので)を見させていただきましたら、ふと先日、読んだ本を思い出しました。



先日、ウィニコットを読ませて頂いた後に、さっと読ませて頂いた、50円で購入できた(除籍本ですが)本にも、遊びというキーワードが出ていて、3回読み返してしまった箇所があったのでアップさせて頂きました。
 「遊び」という言葉をこんなに考えた事は初めてでした。


『日本文化のキーワード』 (栗田 勇著)
二、〈遊び〉ということ 「遊戯三昧」という境地〜遊行というのは、表面的にみれば、物や日常生活に執着せず、時々刻々、執われがちな自分を捨てて、諸国を托鉢して廻り、一生を修行のうちに終える姿をいう。
 一遍上人は、自らの寺も持たず、人が集まれば「道場」と呼び、死に臨んでは、すべての持ち物を焼き捨て、骸さえ野に捨てよと遺言した。文字どおりの遊行の人であった。〜

手毬つく良寛の胸のうち 40ページで紹介した『梁塵秘抄』の「遊びをせむとや生まれけむ」の歌にしても、子どもの遊びを見ていると、心が騒いでならない。自分の心がこれでいいのか。自分は本当に遊んで自由になっているのか。それとも遊んでいないのではないか。日常性にとわれているのではないか。目覚めていないのでないかという迷いがある。
 だから、本当の「遊び」の境地に自分が達しているかどうかということを、子どもに問い掛けられている。それをまた自己に対して問い掛けている歌である。そうしてみると、じつは純粋に遊ぶということは、むつかしいのかもしれない。
 これと同じような情景を詠んだ人に、良寛がいる。
良寛は日本人の遊びということを、深い意味で実現した一人の理想的な人間像として、私たちの前にいる。
 よく知られているように、良寛は越後の国、国上山の五合庵という草庵に住み、里におりては子どもらと、手毬をついて遊んでいた。それを歌った有名な歌に『子どもらと 手毬つきつつ この里に 遊ぶ春日は 暮れずともよし』というのがある。
 春の日長を子どもたちと手毬をついている。このまま時間が経たないで、いつまでも無心になって子どもと毬をついていたい。
 その絶対的時間というものは「永遠の今」ともいうべきもので、純粋、自由の極致である。 天地と一体化している。そうした遊戯の境地にあって、一面で良寛は、これも続かないだろうという諦観と嘆きをもこめている。良寛が、今日なお、私たちの心を打ち続けている理由もそこにある。
 考えてみれば、遊びという何物にもとらわれぬ自由とは、おそろしいことである。日本人は何故に、人生の大事を、「遊び」とみたのであろうか。
思うに、私たちは、この世の現実をやはり、確固不動の物質界とはみないで、輪廻転生する仮の世とみた。その仮の世を必死に生きてゆく姿、そこに日本人の深い遊びの心がこめられているのである。
 仕事もまた遊びのうち、というのも、こうした文化史的な背景から
考えてみると、ごく自然ななりゆきであり、かえって遊びの極意といえるのかもしれない。



 ひーひー王子との散歩道に、桜の花吹雪が舞っていたので、集めようと頑張ってみましたが、落ちた花弁はちじんでしまっていて、集めて水に浮かべても、ゴミにしか見えなかったので、少しだけ花を頂いてきました。


 みーちゃんと花見をしたいと思い、みーちゃん用に設えた天目茶碗に水を入れ、浮かべてみました。

 眺めていたら少し淋しくなったので、神仏習合で賑やかにしてみました。無事、お母さんの所へ行けますように。祈



 クライン入門の続きを読もうと思いましたが、今日はうとうとしてしまい(笑)諦めます!
 もう少し事務仕事してから早めに寝ます(笑)春ですね!