うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

竹林の七賢と分裂病性障害の治療と帰結より


 先日、大須観音で購入したもう一つのお茶碗でお薄を点て頂きました。頂いた後、居間に飾りましたが、竹が見えたので、竹林の七賢、向秀と見立て、残りの人生を向秀のような人生を送らせて頂こうと思いました。


以下、ウイキペディアより
向 秀(しょう しゅう 生没年未詳)は、竹林の七賢の一人。字は子期。三国時代の魏および西晋文人。河内郡懐県の人。『晋書』に伝があるほか、『世説新語』「言語篇」注と『太平御覧』巻四〇九に『向秀別伝』なる伝記の逸文が残る。
嵆康・呂安と親交が深く、嵆康とともに鍛冶仕事をしたり、呂安とともに野良仕事をしたりするなど富貴を求めず悠々自適の生活を送っていた。嵆康や呂安は俗習にとらわれずほしいままの態度をとっていたのに対し、向秀は読書を好んだため、二人は向秀をあざ笑っていた。
老荘の道を好み、『荘子』の注釈を作ろうとした。すると嵆康は「この本にどうしてこれ以上注釈など必要とするだろうか。まさに読む人が楽しみをなすのを邪魔するのみである。」と反対したが、注釈が完成すると世に絶賛され「これを読む者は超然として心に悟り、一時のうちに自ら満足しない者はいなかった」と言われた。呂安は「荘周は死せず。」と賞賛した。
また、『周易』の注を作ったが、こちらは「大義は見るべきものがあるが、『荘子』の注が絶倫であるのには及ばない」といまいちの評判であった。
景元4年に親友の呂安と嵆康が「官職にもつかず、世間を馬鹿にしておごり高ぶっているような人間は、無用な人間である」というかどで処刑されると、一転して郡の招聘に応じて上計吏となって都に登った。司馬昭がその変節を笑って「君には隠者の志があると聞いていたが、なぜここにいるのかな?」と尋ねると「隠者は気難しいだけで聖王の心に及びません。敬慕するに足りましょうか。」と答えた。その後、散騎侍郎・黄門侍郎・散騎常侍などを歴任し、在職中に死去した。
文学作品に『思旧賦』がある。これは、ある寒い日の夕暮れに昔の住まいを通り過ぎた際、どこからともなく笛の音が聞こえてきたため、嵆康・呂安と過ごした旧事を思い出し、感傷に堪えず作ったという。


みーちゃん用に、飾り直しました。


サリヴァン入門が読み終わり、沢山の学びを頂き、線を引いた箇所が多くて悩みましたが、障がいをお持ちの方々の支援をさせて頂いていて、今一番思うところであることに触れている感じがした箇所を選ばさせて頂きました。

第11章 精神分裂病
6,分裂病性障害の治療と帰結

〜しかしながら、その不穏および困惑にもかかわらず、患者は周囲の人々からのコミュニケーションを予想以上にはるかに障害されることなく吸収する。心を狂わすほどの戦慄恐怖の中で、分裂病者は、周囲の人々の感情、態度および言葉に対して、不用意な観察者の想像などはるかに絶する用心深さを見せるのである。
 この時点における治療者側からのコミュニケーションは限定されるべきであり、さらに治療者の非言語的振舞いはおそらくその語られたものと同程度に重要となる。コミュニケーションはけっして追及されることも強要されることもなく、それはいわば患者の自由に任されており、そうすることによって患者は自分が安心できるところまでそれを同化することができるようになるのである。そこで治療者は、自分はひとりの苦悩する人間である患者に真摯な関心を抱いており、患者と共にその痛みを分かち合おうとしているのだ、と伝えるべきである。治療者はまた、少なくとも限られてはいるが、患者が体験している事柄についてしっているのだという感じを患者に伝えるべきである。特に治療者はひいきにしたり愛想よく元気づけたりするべきではない。治療者がなすべきことは、自分には本人への深い配慮と本人を理解し援助する事への真剣な希求があるのだと、患者につたえることなのである。
  こうしたことのできる治療者もいれば、できない治療者もいる。さらに、こうしたことはある程度までしか治療者に教授できない。教育により人々に知識を授けることは容易だが、それにより他者の痛みに対する感受性を人々に賦与することは難しいのである。分裂病患者は、誰がにせ物で誰が自分に真の関心を寄せてい人であるか即座に把握する、ほとんど超人的とも言える能力を持っている。どの治療者が自分たちを症例として眺め、どの治療者が自分たちを人間として考えているのかを患者は知っている。


 今から夜勤です。