うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ハレとケ?と、サリヴァン入門(A.H.チャップマン&M.C.M.S.チャップマン著)より


 夜勤明けで帰宅したら居間にあるさくらんぼの花が咲いていたので、親分に内緒で(笑)お茶碗を飾ったら、何となく華やかになり、『ハレ』という言葉が浮かんできました。深い意味はありません(笑)

 玄関にある方は、『ケ』でしょうか?
ただ単に、地味なだけでしょうか?(笑)

ウィキペディアで調べてみました。

「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
民俗学文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。
ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。


概要
もともとハレとは、折り目・節目を指す概念である。ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」(=生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(=折り目・節目の儀礼で着用する衣服)などの言い回しで使用されている。これ対し普段着を「ケ着」と言ったが明治以降から言葉として使用されなくなった。また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」というが、江戸時代まで遡ると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録がある。1603年にイエズス会が刊行した『日葡辞書』には、「ハレ」は「Fare」と表記され、「ケ」は「Qe」と表記されている。
ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されたが、これらはかつて日常的に飲食されたものではなかった。また、そのための器もハレの日用であり、日常的には用いられなかった。




サリヴァン入門』は、先にサリヴァンを読んでおいた方が、より理解できると思われます。(難解ですが......。)


第1部サリヴァンの人格発達理論とその治療的掛かり合い4,幼児をとりまく対人関係の網の目 〜人が独立の個として存在しているという幻想、というサリヴァンの概念の決定的な、革命的とも言える重要性は、すでに第1章で別の角度から概観した主題である心mindという概念についての言及にある。サリヴァンは、心理学や精神医学の分野の中で心という概念を使用することを拒否する。それは、心という概念をいったん容認してしまうと、誰でもが自分の選んだやり方で適当にその内容を描写できるようになってしまい、しかも客観的科学的方法で観察し得ないため、それは立証も反証もできなくなってしまうからである。サリヴァンの言葉で言えば、誰でも自分の望む方法で心の内容を整理できるということである。心の内容を自分独自で整理する仕方が他のどの人のやり方よりも妥当であると証明することはできないし、また逆に、心の中で事物のありようについて無数の理論体系を立てることも可能となる。
 その結果として生じるのは、心理学と精神医学における新学派の果てしのない増殖である。しかもそれらの新学派が世に受け入れられるか否かは、その学派の提唱者に、結論を出すための客観的で反復可能な科学的実験法を考案する能力があるかどうかというよりもむしろ、その提唱者が雄弁術や思いつきに長けているかどうかということによっているに違いないのである。
 心という概念は、哲学や宗教や俗信の中では受容されうる。と言うのは、これらの思想体系が、その所説を立証できるか反証できるかということを要求されないからである。しかし科学というものは、その所説の有効妥当性を要請する。心理学と精神医学に対する自身の研究方法を対人関係(人々の間に生起する観察可能な事柄)に基礎づかせることによって、サリヴァンは科学的な立場にわが身を置き続け、また精神医学がやがては真に科学的な学問分野に発展する可能性を示し続けた。〜



 障がいをお持ちの方々の支援をさせて頂いていても、『慣れ』だけで支援されておられる方が沢山(ほとんどかも?)いますし、自分の要求を押し付けている方も良く見ます。

『反復可能』は現場でも、本当に大事な事だと思われます。自分しか出来ないとその方の為にはなりません。





※〜新学派が世に受け入れられるか否かは、その学派の提唱者に、結論 を出すための客観的で反復可能な科学的実験法を考案する能力がある かどうかというよりもむしろ、その提唱者が雄弁術や思いつきに長け ているかどうかということによっているに違いないのである。〜


 どこの世界でも言えることですね(笑)でもそんな輩は長続きしません。