うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

さくらんぼの花と、野点?と、青年期過程における死と殺し


 ひーひー王子と歩く道沿いに数本のさくらんぼの木があり、一本は放置状態で、実が出来れば小鳥たちの餌になっています。それはそれで楽しく見させて頂いています。
 咲き始めたので、一枝頂きました。
一献と行きたいところですが、今日は夜勤でした(笑)
うちにある唯一高価なものは、親分作の黒楽だけなので(笑)撮影用に無断で拝借(笑)使うと叱られます(笑)

 明日からは又、寒くなるとのことで、暖かいうちにアイデアを試してみました(笑)大したことではありませんが......。

 暖かかったので、外で(玄関で)お薄を点て、仏壇に供えていた3個103円の大福で一服させて頂きました。お茶碗は、今は無き田原市リサイクルセンターで200円で購入した、金接ぎの伊万里!早く飲まないと浸み出て来そうなので、二口で頂きました(笑)



 ウイニコットを読んでから、クライン派精神分析関係の本も読みたくなりましたが、まだ読んでいない本がありますので早く読んでしまいます。
 ウイニコットも本当に勉強になりましたし、もっと読みたいですね。


第11章青年期発達の現代的概念とその高等教育への示唆
青年期過程における死と殺し
〜未熟さは、青年期状況の貴重な一部である。この未熟さには、創造的思考、それまでにない新鮮な感覚、新しい生き方への発想といった、最もエキサイティングな特徴が含まれている。社会は、責任能力のない人たちの熱望によって揺り動かされる必要がある。もし成人がその地位から退いてしまうと、青年は時期尚早に、偽りの過程によって成人になってしまう。社会に対する助言として、次のことが言えるだろう。すなわち、青年たちのため、彼らの未熟さのためを思うなら、たとえ彼らが責任を手に入れるために闘争をしかけようとも、決して、まだ彼らのものでない責任を引き渡して、彼らが偽りの成熟を増大させたり、獲得したりするのを許してはならない。
 成人がその地位から退かないという条件つきでこそ、青年たちが自分自身を見出し自ら運命を決定しようとする奮闘を、私たちの周りにある最も感動的なものと見なすことができるのである。理想的社会についての青年の考えはエキサイティングで刺激的だが、青年期に本質的なのは、未熟さと、責任感がないという事実である。この青年期の最も神聖な要素はわずか数年しか持続せず、そして成熟が達成されるにつれて、各個人から失われていかねばならない特性なのである。
 私は次のようことを常に心に留めるようにしている。すなわち、社会が永続的に保持しているのは、青年期という状態なのであって、個々の青年期の少年少女ではない。青年期の少年少女は、残念ながら数年もすれば成人になってしまって、あっという間に、また次の新しい赤ちゃんたちや新しい子どもたちや新しい青年たちが世界についての意見や夢や新しい計画をその中で自由にもてるような、ある種の枠組みに同一化してしまうのである。
 勝利感は、成長過程による成熟の達成を通して得られるものであって、決して、成人への安易な模倣に基づく偽りの成熟からもたらされることはない。この一言の中に、いくつもの恐るべき事実が封じ込められている。(ウイニコット)



 歯科受診の待ち時間で『サリヴァン入門』を読ませて頂きましたが、ウイニコットを読んだ直後だったので、前半の人格発達は、直ぐに頭に入ってきました。