うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

男の料理Dayと、ブラジルの方の思いやりと、『選択的非注意』抑制、抑圧、解離―概念同士の関係を若干


 昨日は、二回目の男性職員が夕食を作る『男の料理Day』でした!
メインディッシュは、小中山名物『餃子コロッケ』でしたが、自分はまだ頂いていないので、香りだけいただいて帰って来ました。
 皆さんに美味しかったか聞いてみて、美味しかった!って聞いたら買いに行こうと思って居ます。一個90円なのに、50円にまけてもらったとのことでした(笑)根性ありますね!


 昨日、自分は支援の難しい方を大きな病院に行くお手伝いをさせて頂きましたが、色々あり待合で待って居たら、ブラジルの方が先に診察を終え、帰られる時に自分の方に来てくれ、『頑張って下さいね!』と声を掛けてくださり、不覚にも?ほろっと来てしまいました。
 きっとその方も慣れない異国の地で苦労されておられるのでしょう。
その時に読んでいた場所が下記の箇所でした。

〈先行体験なきものは体験されない〉ということである。過去の体験がなくて、今の体験とくっつけられなければ、自分の身に起こったことでも、気が付くのにおそろしく時間がかかるだろう。


『選択的非注意』抑制、抑圧、解離―概念同士の関係を若干サリヴァン

〜われわれが何ほどか新奇な事象に遭遇し、しかもその時、われわれには疲労や退屈などのややこしいものが全然なくて、われわれは高度に目ざとい状態としよう。この事象の意識とは、感覚人力の既知のパターン認知ということである。〈既知〉という意味は、〈知覚という工場をとおってまた過去の体験のどれかと直ちに結びついた〉という意味である。たとえば、わたしが熟したトマトとぶつけられたとしよう。このことは、実に沢山の事象が遠距離受容器などに飛び込んだことである。色彩、手触り、飛沫など、あらゆる種類のものが過去の体験と大がかりに照合される。ほとんど同時に、陰伏的な諸過程が事件に対して反応する。「このトマトはどのように飛んできたのか?」「私にぶつかったのは偶然か、誰かがわざと私にめがけて投げたのか?」「後の場合なら私は自然な目標だったのか?つまり狙われたのかそれとも私は全くの通りがかりで、その誰かの狙いが下手だったために目指す人物の代わりに私に当たったのか?」これらの問いはすべて、ほとんど自動的に問われる。なぜなら、われわれにとっては揺籃から墓場まで、自分たちに対して人が何と表現しているか(軽蔑、賞賛、嫌悪など)を知ることがきわめて重要だからである。これがわれわれの安全保障感と全脅威感の源泉である。かつて〈自己組織〉が発明されたのもこの仕事のためであった。自分以外の人間たちに立ちまじって安全に生きるというほとんど不可能な大事業をやる手腕をある程度われわれにさずけるためであった。〜

〜〈先行体験なきものは体験されない〉ということである。過去の体験がなくて、今の体験とくっつけられなければ、自分の身に起こったことでも、気が付くのにおそろしく時間がかかるだろう。しかし〈体験の絶えざる成長〉というのものがある。〈体験の成長〉とは〔刺激に〕反応する心理傾向が類似の対人の場との過去の接触を活かしているという意味である。このことは、事例報告が得られるものすべてについてきわめて一般的に真実である。だからわれわれに、これと反対の証拠が到来するまでは、報告を一般に正しいと推量してよい。そして、私は、反対の事態が証明されるかも知れないとほのめかすほどのものさえ一度も耳にしたことがないと付言しておこうか。〜



 
 サリヴァンは本当に人間をよく観察しているなと、昨日も今日も思いました。