今日はシフト上では休みですが、午前中は仕事で走り回り途中、お茶とおまんじゅうの接待を受けましたが、心憎いおもてなしを受ける事が出来ました!
お茶も玉露で最後の一口は、お茶なのに甘味が感じられ、寒いぼ(鳥肌)がたちました(笑)
そしてこの器の取り合わせは、本当に唸ってしまい、(お茶の緑とお菓子があればもっと素敵でしたが)『用の美』という言葉を久し振りに思い出しました。11月に染付を出して!(しかも小皿は桜の文様)と文句を言われる方もおいででしょうが、利休が言う様に、今自分が出来る事や自分の中から出て来るもので心を込めると言うのが、おもてなしの心ではないかと思います。
今日も待ち時間にサリヴァンを読ませて頂きました。
第三章 選択的非注意(精神医学の臨床研究より)
いろいろな人格発達期にそれぞれ学習の機会が内在していることを思えば、それほど多様な教育的体験を通過しながらそこから何も得ないことがありうるとは一体なんという事か訝しく思われてもふしぎでない。ここで教育的体験とは、事柄のおおよそのパターンを見れば間違いなく知的生物(である人間)に何かを教えるであろう体験である。もう何とか生きてゆけそうに思うところまでついに到達した後(すなわち自分の人生がおおむね順調に進展するようになった時)からそれ以上は学習しなくなるとは、一体全体どうしたことだろうか。もっと具体的にいえば、精神科医の活動領域においては、自分たちの患者たちが《石の壁に頭を打ちつける》というのがぴったりの体験をする。それも一日に何回もやる。相当痛く、他にも種々の面倒が起るのにそれによって何ひとつ学ばないのはどういうことだろうか。
その説明は人間の装備の普遍的部品である《選択的非注意》に求めらると私は思う。われわれに相当の体験が降り注ぐにもかかわらず、われわれが大体われわれのままでおれるのもこのもののおかげである。それも単に注意を別のものに向けさせつづけることだけでよい。つまりわれわれに作用する事象の意識を管制することによってである。
中々分かりにくい文章なので、ネットで色々調べていたら、中井久夫先生の『思春期を考える』の紹介文で分かりやすい物がありました。
例えば、人間は生き物を殺すことに罪悪感を覚えるが、それでも、肉を食えるのは、選択的非注意を行っているからであろう。これが、統合失調症になると、「非注意できなくなる」わけである。
これは大変な事ですね!健常者と言われる方々にはスルー出来る事が出来ないのは、本当にしんどいし、疲れる事でしょうね!
これとは、正反対のことが、サリヴァンの本に書かれていました。
サリヴァンは『選択的非注意』の患者さんの一人の繰り返される話を200〜300回聴いて、自分の虫の居所が悪かった時に、イライラがこみあげて、彼が話し終えるより先に話しの腰を折ったが、その患者さんは毎回、同じ話をしていたのに気が付いていなかったのを、その時に初めて知った話を『選択的非注意』第1の臨床例として挙げていました。
サリヴァンが生前に唯一出した『現代精神医学の概念』にこの『選択的非注意』が抜け落ちていて、第五版の『序文』にサリヴァン自身がそう書いていたというのを『あとがき』で中井久夫先生が、うっかり脱落したものが『選択的非注意』であったとはいささかユーモラスであるが。と書かれています。(自分は序文とあとがきを先に読ませて頂く癖があります)
※受容だけでは見えない世界があります。