うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグ I×二人展と理事会と『恕』



 本日から『アトリエ・カーグ I×二人展』が、豊橋商工信用組合・田原支店で始まりました! 9月30日までです。
 本物はもっと素敵なので、ご高覧下さるようお願いいたします!




 今日は午後から理事会がありました。
重要な案件が沢山あったので、書類作成に時間がかかりましたが、何とか間に合いました。
 慎重に見直ししないといけない案件でしたので、急な会議は親分に代わりに行っていただきました。
 おかげさまで、活発な議論がなされ、貴重なご意見を沢山頂きながら第4号議案まで全て理事さんたちに了承を得ることができ、ほっとしたら疲れがどっとでました(笑)

 副理事長が、作っているシュークリームとプリンも出て、皆さん大喜び! 自分はプリンしか頂いていませんが、美味しかったようです。
 プリンは、分量が少なくなったので店に出せないので持って来てくれたとのことでしたが、沢山あったので、明日の朝食に皆さんにも提供させて頂けます。フランス帰りの甥子さんのお店でもあり、本当に美味しかったです。(プリンだけですが.....。)
『おかしや みずき』さんはこちらです!
http://tabelog.com/aichi/A2305/A230503/23040182

 

 疲れたときは雑誌がいいですね!
こちらも除籍本で、50円で買わせていただいたもの。
 時々ぱらぱらと捲り、気になったところだけ読ませていただいています。

 論語の『恕』(思いやる心)は若いころから胸の奥にありますが、論語の中で一番重要な言葉でもあり、一番難しい言葉でもあります。


語彙辞典より
恕(じょ)

ゆるす、おもいやる、はかる。
恕とは如の心、即ち、一切を包容して進歩向上せしめんとする心のこと。
説文解字の心部には「仁なり。心に従い如を声とす」とあり、その言葉の通り恕は仁に近い。
ただ、仁と異なるのは中せんとする心、即ち「忠」の有無である。
大学に「仁人のみ能く人を愛し、能く人を悪む」とあるが、「恕」だけではこの「能く悪む」という部分の存在が欠如しているが故に、包容した上で向上せしめんとはしても、そこに甘んじてしまう者にとっては単なる愛と変わらなくなってしまう。
論語に「夫子の道は忠恕のみ」とある所以である。
なお、恕は如+心であるが、如の字解には複数説ある。
如に関して説文解字の女部に「随ふなり。女に従ひ口に従ふ」とあり、この口において解釈が異なる。
一つは、口は祈りを収める器の象形であるとして、巫女が神意をはかり、それに従うこととする説で、故に「如何」は問う意となり、「如し」はそれ“そのまま”という意になり、神意に近づく意から「如(ゆ)く」という。
もう一つは、口は領域・本分を示すという説で、所謂、国などに用いられる口と同じものとする場合である。
女の領域において男と必然的に異なるのは子を産むということである。
新たな生を育み、これを出だすは造化そのままであり、故に「如し」は“そのまま”の意となり、新たに生み出すから「如(ゆ)く」となる。
そして、母の心は子に対する慈愛に満ち、子供を包容して已まないから、心をつければ恕(ゆる)し、恕(おも)うのであるが、恕(おも)うに過ぎて律せざれば恕(おろか)となる。
故に恕はすべてを包容し育むも、忠がなければ道を得ず、善悪兼ね入れて達するには至らない。
ここにおいて、家庭における父の存在、即ち、忠の必要性が認識される。
即ち、恕と忠は、影の形に添うが如くにあるべきものなのである。





 事務仕事が山積していますが、今日はもう何もしません(笑)