うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のすろーじゃむとパソコン増設完了と縄文と写真幻想


 今日のすろーじゃむは通常通り行われましたが、物作り用の机をふたつ組み立てました。
 後はミシンを運ぶだけですね!

 サツマイモの試験掘りをしましたが、まだ早い様子なのでもう少し待ちましょう!
 残念感が写真に出てしまいました(笑)


 先日はパソコンの業者さんに不具合?があり、パソコン増設が今日の午後からになりました。
 今日は早番でショートステイの応援に入り、渥美の送迎を済ませ、また戻りパソコンの増設に立ち会い、すろーじゃむに机を作りに行きました。
 小さな法人なので、自分だけでなく、皆さん一人で何役もこなして頂いています。
 壁紙は、江比間の海にさせて頂きました!

 今月のバンドクラブの後、図書館で本を借りて出てきたら、ロビーで古い本を50円で売っていたので買わせて頂きました。(除籍本)
 鼎談ですが、梅原節は健在でした(古い本ですが.....)。個人的には地元の民俗研究家の田中忠三郎さんの話が一番心に残りました。
古墳時代は、愛知県以東、蝦夷の人々(山人?縄文人アイヌ?)が住んでいたそうで、アイヌや隼人と言われる方々が本当の日本人と思われます。御幣はイナウから来ており、依代ではなく鳥で、祝詞をもって神の居る天まで人々の願いを届けてくれるとの事。祀りのインスタレーションにも参考になりました(笑)
 もっと縄文的に(道教的?)に生きないといけないのかな?と考えさせられる一冊でしたが、分かり易かったので2時間くらいで読めました。50円で貴重な2時間が買えました!



 その時に借りた本がこちらです。
サリヴァンを読ませて頂いている最中なので、心に響く箇所が沢山ありましたし、詩的な文章だったので、リズム良く読ませて頂いています。
 サリヴァンが良く言う『アンテナの感度を上げろ』は、本当の意味での芸術家なら、持ち合わせているのかも知れないと思わせる一冊です。

写真幻想・ピエール・マッコルラン(昼間 賢訳)
不安の伝承
〰「社会的幻想は大都市の夜に住まう」などといった、優雅であるが、文脈から切り離されれば意味不明の表現が見つかるくらいだろう。結局、様々な記事や小説の交錯するところにのみ、社会的幻想の想像地図は描きうるのだ。それは、冒険家、放浪者、除隊になった兵士、脱走者良心の呵責に苛まれた殺人犯、娼婦、等々の特徴のある登場人物たちに体現されている。
彼らが好んで出没する場所は、港湾都市、水夫御用達のバー、幹線の駅、暗い路地。仮面、お守り、マネキン人形や布製の人形も、その実現に与する。社会的幻想は、夜明け前や真夜中、街灯や公共の照明の冷たい光といった特別な雰囲気のなかで発達する。霧や風雨などの悪天候も同様である。その感覚は戦争や危機の時代に増殖し、人間存在の悲惨さ、飢え、罪悪感、不幸、そしてマッコルランによれば社会的幻想を生み出す要素である不安によって肥大化する。
表現主義の他には、社会的幻想は、大都市についての鋭い演劇性、予測不可能な夜への完全な服従、人形やマネキン人形などある種の物の力の瞬時の認識といった多くの点で、シュルレアリズムにもかなり近い。しかし、マッコルランの社会的幻想がもっとも多くの反響に出会うのは、ルイ・アラゴンが『パリの農夫』(1926)で「日常の驚異」と呼んだ事物においてである。アンドレ・ブルトンも『シュルレアリスム宣言』のなかで、「ある種の人々が抱えている驚異的なものへの憎しみが、その人たちがそれを貶めようとしているばかばかしさが誤っていることを明らかにしたい。はっきりさせよう、驚異的なものは必ず美しい。どうあっても美しい。美しいものとしかありえない。」と述べている。シュルレアリストたちにとって脅威とは世俗的であり、ささいなものでさえあり、まさにマッコルランの社会的幻想が超自然的なものに向けたように、聖なるものを断念したように見える。そもそも、マッコルランは何度か、社会的幻想の代わりに「社会的驚異」という表現を用いている。
二つの概念が等価であるかのように。
社会的幻想とシュルレアリスムの接点は、もう一つある。両者とも、心理的なプロセスの解明について関心を共有している。影や夜や血といったロマン主義的ないくつかの主題を取り上げつつも、それらを外来的で悪魔的な表出ではなく、存在のもっとも深くから来る人間的な衝動とみなすマッコルランは、精神分析的な仕方で、心理現象の内的な働きの理解に努めている。ジークムント・フロイトの理論にも親しんでいたようだ。たとえば『誂えの仮面』では、フロイト同様に、無意識の活動を記述するのにカメラ・オブスクラの隠喩が用いられている。「フロイトの著作など読まなくても、眼で生活し、眼に支配されたこの男は、赤い光に照らされた頭のなかの暗室で一人、自ら撮影した純真な映画を上映する」。この点では、社会的幻想は現代社会の不安を精神分析するための一つの試みと言えそうである。シュルレアリストのほうでも、ブルトンの言う「フロイトの見事な発見」に、特に1933年以降はマリー・バナパルトの翻訳による「不気味なもの」に熱中するのだった。この中でフロイトは、ある種の日常的な状況や慣れ親しんだ事物が新しい光のもとでは不安を生み出す可能性を指摘している。シュルレアリストたちにとっては、不気味なものは、驚異のネガとして、その別人格として、一種の二重性を構成する。別人格は魅力的だが、不気味なものは苦悩である。それは驚異的なものの暗闇の部分であり、その点で、社会的幻想にいっそう近づくことになる。ここで、フロイトロマン主義文学、なかでもホフマンの幻想譚を読んで、不気味なものの概念を練り上げたことを指摘しておきたい。そこでもまた、精神分析を介した社会的幻想とシュルレアリスムの隣接が、両者ともロマン主義に根ざしていることから説明される。〰


 生きていくには本当にいろんな事を知らないといけないですね.......。
 禅で言う『無学』までは死んでも無理だと思える今日この頃です(笑)