うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

疑似イノセンスと今日のすろーじゃむ

サリヴァンを読ませて頂きながら、色々思い出したり、分からない単語を調べているうちに色んな文献に行き着きます。
沢山の学びとヒントを与えてくれ、少しずつですが世界が拡がって行く感じがしています。少しずつですが......。

ICU比較文化』46〔2014〕Article accepted Nov. 30, 2013
ICU Comparative CultureNo.46 [2014], pp. 91-128
パウルティリッヒの神学とロロ・メイの実存的心理療法若山 和樹 より抜粋しての引用です。

 ダイモニックなものは、メイが述べるようにそれが人格と統合されないのであれば、悪魔となってしまう可能性をもつような力である。こうした可能性を恐れて、現代人はこの内的な力を遠ざける。これは先に挙げた自己自身の疎外であり、実存神経症を作り出すような一つの形であるが、メイはむしろ積極的に無力であろうとする現代人の傾向を発見した。それが「無力さを見かけ上の美徳とすることによって、自分の無力感に立ち向かう」という「疑似イノセンス(pseudo-innocence)」の態度である。そこではダイモニックなものは、それが時に破壊的になってしまうが故に、「オフリミット」のラベルが貼られ、その全領域を禁止されてしまっている。彼らはシャツに一点の滲みがあることを許さず、他者に対して道徳的完全性を求めて批判する。しかしこれは、「無邪気というよりむしろ幼稚」な態度である。そうした人々はユートピア的理想主義を掲げ、実際の危険を見ることができず、それ故に自己の抱えている破壊性と折り合いを付けることが出来ないのである。このような態度をメイは疑似イノセンスと呼び、「自分自身の持っている力を認めてかかること、あるいはこれに向かい合うのを避けるためのごくありふれた防衛手段である」と指摘する。実存神経症はこの防衛手段が作り出すものであると見ることができるが、しかしこれは防衛が成功した形である。メイが強調するのは、ダイモニックなものは抑圧されると、極めて暴力的な形で噴出するということである。「ダイモニックなもの、それ自体を認めないということは〔……〕われわれを破壊的な憑きものの側での共犯者にしてしまう」のである。ダイモニックなもの、とりわけそれに含まれる悪の可能性を見ないことは、破壊的結末を招いてしまうのである。これに打ち勝つ唯一の方法は、率直に自らの中にある破壊的になり得る力に直面し、それと協定し、それを自己システムの中に統合することであるとメイは強調するのである。
 そうであるからして、まずは喪失されているダイモニックなものをその人の中に呼び起こさなくてはならない。メイは『暴力とイノセンス』の中で、完全に無気力な状態にあった若い黒人女性に、メイ自身が怒りを表明していくことで彼女の中に怒りを取り戻させ、そして自尊心と建設的な攻撃性を回復させていったケースについて述べている。メイはセラピーの中に、「怒り、セラピストへの敵意、破壊性」といった「悪」の要素が引き出されることを推奨し、それは大きな健康へのモチベーションとすることができると強調している。だが、ここで一つの問題が生じる。ダイモニックなものは、メイによれば方向性の付けられていない潜在力として、それが生じるのであればカオティックな状態を存在に生自己を脅かすという性格を持つのである。それが自己を呑み込んだ結果として生じるのが、デーモン憑依としての破壊的結末である。そうしたカオスに呑み込まれないために、自己にはある程度の強度が必要となるとされる。ここに、ダイモニックなものを精神療法に用いるための中核がある。既にメイが自己の成立の基盤として「存在の感覚」というものを置いていることは述べた通りである。そして、この「存在の感覚」は存在の力の経験によって、すなわちダイモニックなものの経験によって生み出されるものなのであると指摘されている。つまり、ダイモニックなものに呑み込まれないような自己は、ダイモニックなものを経験によって生み出される存在の感覚に基礎付けられて強化されるのである。自己はダイモニックなものを己の上に引き受けることで発達し、そしてより大きな存在の力を行使できるようになるとされる。そのため治療者の仕事は、その自己が完全に呑み込まれないようにコントロールしながら、ダイモニックなものをクライエントの上に招き入れ、その自己を強化していくことであると言えるだろう。このような自己とダイモニックなものの間に弁証法的関係を作り出すことが、ダイモニックなものと人格を統合していくという作業である。しかし、しっかりと治療者によってコントロールされるにしても、まずは自らのダイモニックなものを経験することが先行するのである。すなわち、そこにはリスクを負う覚悟と決断が、つまり勇気が要請されるのである。
 それでは、ダイモニックなものと自己を統合していくという作業によって、どのようなことが生じるのであろうか。メイの自己の理論の大きな特徴の一つは、自己が人間存在の中で唯一自律性を持つことである。言い換えるのであれば、メイは心理学者として、存在の力の中に何者かの意志や方向性が存在することを退ける。ダイモニックなものにこうした「志向性(intentionality)」を与える自己の機能が、「フォームへの情熱」というものである。これは、存在の力が個人の自己実現を通して働くことに対する心理学的な説明であると言える。メイよれば、身体だけでなく精神にも生きる人間には、「意味をもつものとして、自分自身を体験したい」という憧れがあるとし、この憧れはフォーム(形式)への情熱として自己の中に存在すると述べるのである。ダイモニクなものが自己の中に招かれたのであれば、かつて持っていた志向性というものをかき乱し、カオティックな状態を作り出される。しかしメイは、このカオスを十分な強度を持つ自己が眺めるや否や、フォームへの情熱によってそこには秩序が生まれ、自分たちを方向付けることが出来る意味が確立すると強調する。メイは、フォームへの情熱は「人生に意味を見出し、意味を構成しようとする方法」であると述べ、「これこそほんとうの創造性であるところのものすべてである」と述べている。そして、フォームへの情熱はカオスの中に「運命」であるところの、人生の目的地を創造するのである。そして同時に、ダイモニックなものは、自己をその目的地へと押し出す力を授けてくれる。その目的地に向かって自己を創造していくことによって、その人の本性は実現され、生き甲斐のある人生を生き、その意味を体験することが出来るのである。これが先に述べたティリッヒの「存在への勇気」と同一のことは明らかであろう。



ノースカロライナで一緒だった、女性の心理職の方は、あるクライアントの方の一生を発達の過程ごとに、クライアントの話を聞きながら、その話に基づいた人形を作って、発達のどの過程で何があり、その出来事が、現在のその方にどのような影響を与えたのか?、その時点では何故そうしなければいけなかったのか?を見つめなおす作業を行ったと話して頂いたのも思い出されます。


『存在の感覚』は、創作活動にもヒントをくれました!
先の星野眞吾賞で落選した(笑)作品の題は『記憶の質量』
写真は、制作途中の物です。

次回は『存在の感覚』で頑張ってみようと思って居ます。
 失敗も成功の裡! 「意味をもつものとして、自分自身を体験したい」という憧れがあるから、創作活動をしたり、音楽を作ったりするのでしょうか?
最近は、批判される方が多いですが、努力は(的が外れていない)必ず報われるし、守られた集団の中で、自分は出来ると思って居ても、その集団から離れ、自分の名前だけで勝負した時に、打ちのめされる事も多々ある事も沢山経験してきました(笑)改めて、分かるのと、出来るのは違うと言う言葉が身に沁みます!

 今日もよく降りました!
屋外のアクティビティーは無理だったので、物を作ったり、花を活けたりして、少し遊んでみました!

 女性職員さん達は、支援や物作りの話で盛り上がっていました!
染色等も始まる様なので、非常に楽しみです!