『政策論を打ち出す際、現場に行き、データを集める。被害者、加害者、行政に会う。若い斎藤さんには積極的に現場で事実を見てほしい。』は、現場の人間として本当にそう思います。
■マルクスの現代的意義 -マルクスがブームだ。制御の利かない現実を前に資本主義に委ねていて大丈夫かという疑問が背景にある。 斎藤 未完の草稿を掘り起こすとマルクス主義者も批判者も見逃してきたエコロジーの思想があることに気付いた。読み解けば現代の環境問題を論じるのに役立つ。もちろんマルクスが予想していない規模で問題は起きているのだが。宮本先生の思想から示唆を受けたのは素材から体制へと分析する手法だ。都留重人先生(元一橋大学長)の研究とも重なる。これはマルクスの方法論の根幹だ。
宮本 高度成長期の1967年、「社会資本論」を書く時に導入した。道路や上下水道など社会資本といわれているものが人間社会の発生時から共同体の必須の物的基礎だった。従来の経済学のように体制からではなく、素材から入り、それが資本主義体制になったときどんな施設が必要になるか、その性格、経済循環における役割、社会への影響という構成で展開した。
環境問題はマルクス経済学だけで解けるものではない。分析の道具として制度派経済学などさまざまな理論を使った。経済学は人間の行動を扱う以上、芸術のようなもので完璧な体系ではない。だからこそ歴史を踏まえて現実に学ばなければならない。マルクス自身、社会主義について体系的なきちんとしたものを書いていないが、資本主義批判や未来社会への思想は生きている。これからは旧ソ連や中国の社会主義の失敗を超えた、新しい体制への模索が求められる。
地球環境の危機は経済学の革新を求めている。政策論を打ち出す際、現場に行き、データを集める。被害者、加害者、行政に会う。若い斎藤さんには積極的に現場で事実を見てほしい。
下記は、上記の過去記事を思い出させてくれました。20~30年前の論者が語っていることが、ますます顕著になってきている気がします。
また、昨今の若者たちが、銃やナイフをもって不特定多数の相手に向かって突進していく様子を見ていると、言葉の習得という点で、何らかの問題がそこに隠れているように思えて仕方がない。
日常生活を営むための言語は一応習得しているにしても、現代社会と教育制度に搦め囚われた自己の体験を表現する言葉を、彼らは習得しそこなっているのではあるまいか?
心に受けたトラウマを言語記号に移し替えて表現することができぬまま、心に溜まった激情を声にのせて発したいという思いが抑えられなくなることがある。
そして、その衝動が、声帯ではなく、手や腕や体全体の運動神経に刺激として伝わり、彼らに引き金を引かせ、ナイフを突き立てさせたと考えることはできないだろうか?
「恐ろしいこと」は、言語を遣うという人間本来の活動の中に充満しているのである。