うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

クリスマスの飾りと、【過剰な刺激というこのプロセスが「知性の識別力を鈍らせ」、「それを野蛮に等しい無関心の状態へと追いやる」】

f:id:ka-gu:20191125123104j:plain

 浜松の水島さんから、素敵な画像が送られてきました!

もうすぐ12月!今年も大した事出来なかったので、消化不良の一年でした......。

 来年は、1月から自分の、小さいながらの展示会が生まれ故郷であるので、それをきかっけに何かが動き出せばいいなと、今はまだ、ただ漠然と考えているだけです。

 月末に大阪で打ち合わせがあります。

 

 下記はソンタグで、少しだけ続けさせて頂きます。

内容、やはりタイムリーですね。1800年と言う事を忘れさせる文章です。しばらくこの節が続きますが、テクノロジーの進歩は目覚ましいけれども、それは外側だけのもので、内側は何も変わっていないんだとも思いました。もっと書きたいことがありますが、ソンタグが続くので、徐々に書かせて頂きます。

 

7
  現代生活はわれわれを堕落させるような、またわれわれが徐々に慣れてゆくような、諸々の恐怖の定期的摂取から成り立っているという主張は、現代性にたいする批判の礎石とも言うべき思想である。

  その批判はほど現代の開始とともに始まった。一八〇〇年にワーズワースは『叙情小曲集』への序文で、感受性の堕落を非難している。

  それを引き起こすのは、「日々起きている国家的な大事件、増大する都会への人口の集中である。都会では彼らの職業の単調さが異常な出来事への渇望を生み、その渇望はすばやく伝えられる情報によって時々刻々満たされている」。

  過剰な刺激というこのプロセスが「知性の識別力を鈍らせ」、「それを野蛮に等しい無関心の状態へと追いやる」。

アトリエ・カーグとバンドクラブと、【「暴力はそれに屈するすべての人間を物にしてしまう」ゆえに不正である】

f:id:ka-gu:20191124110753j:plainf:id:ka-gu:20191124211039j:plain

 今日は、アトリエ・カーグの日でした!まずは、年賀状用にネズミを皆さん描かれていましたが、自分はパシリで(笑)、昼食の注文などで走っていたので、詳細は分かりません。分かり次第、アップさせて頂きます!

 おかもっちゃんは、力強さの中に艶っぽさもある花になりました!

 

f:id:ka-gu:20191124211119j:plainf:id:ka-gu:20191124211143j:plain

 ゆうこちゃんは、カメレオンと花!爬虫類が苦手な方が見ると、ちょっと目を背けてしまいそうなくらい、顔がリアルでした!ふみくんが、自分が描き終ったら、見入っていました。

 

f:id:ka-gu:20191124211225j:plain

 はるちゃんは、ネズミを細かく描かれていました。芸術系に進みたいと言われていましたが、進まれたほうが良いかもしれませんね!

 

f:id:ka-gu:20191124211312j:plainf:id:ka-gu:20191124211346j:plain

 バンドは今日も元気です!

 

f:id:ka-gu:20191124132020j:plainf:id:ka-gu:20191124132122j:plain

f:id:ka-gu:20191124211647j:plainf:id:ka-gu:20191124211749j:plainf:id:ka-gu:20191124211937j:plain

 

 

f:id:ka-gu:20191124211823j:plainf:id:ka-gu:20191124211846j:plain

 その中でも女子が躍動していました!ドラムは交代でされていましたが、中々迫力があって、良かったです!音楽の始めは、歌だったのでしょうか?リズムだったのでしょうか?今日の女子を見ていると、きっと最初はリズムだったに違いない!と、確信してしまいました。それだけ迫力がありました!

 はるちゃんは、スネアとタムの打ち方を簡単に話しただけで、それなりに叩いていたので、皆さんびっくり!才能がありますね!普通に曲ができました!

f:id:ka-gu:20191124213028j:plain

 まあちゃんが叩き出すと、ギャラリーが凄いことになっていました........。

女子のひたむきさが(3名ともに)、皆さんの感動を呼ぶのでしょうね!

 

 

 早朝に車を置きに行ったので、ソンタグが大分進みました!

ここ5年間くらい、精神分析の本を中心に読ませて頂きましたが、何が本当で、何が間違っているのか?これは相当、臨床や現場で経験を積み、勉強し、真摯に向き合わなければ、答えが出てこない気がして来ました。下記を読んでいたら、支援も暴力的(殴る、蹴る等は目に見えますが)な支援になっていないだろうか?絵カードや写真を使うのは(それが必要な方がいるのも承知していますが)、その人にとっては、暴力的(その人を物にしていないだろうか)なことではないだろうか?と、自省してしまいました。支援をやらせて頂きながら、表出の言語がない方には特に、現在の支援方法で本当に良いのか?を見極めながら出来ればいいなと、思いました。自分が一番初めに働かせて頂いた施設の方が、ご父兄の紹介で、短期入所を希望されていると聞き、嬉しくなりましたが、お名前を聞いて、もっと嬉しくなりました。それは、表出の言語がない方が、本当に安心して自分の不安や症状が訴える事ができればいいのにな!と初めて思った方だったので、尚更嬉しかったです!来て頂けるかどうかはわかりませんが、支援させて頂けたら嬉しいです!

 

他者の苦痛へのまなざし
S・ソンタグ
北條文緒訳

1
  〜シモーヌ・ヴェイユが戦争についての至高のエッセイ「『イーリアス』あるいは暴力の詩篇」(一九四〇年)のなかで言うように、「暴力はそれに屈するすべての人間を物にしてしまう」ゆえに不正である――と考えるのでない限り、実際にそう考える者はほとんどいないが、戦争の破壊性それ自体は戦争を仕掛けることに反対する根拠にはならない。

 そのとおりだ、と特定の状況のもとで武装による戦闘以外の手段が見出せない人々は言うだろう。暴力はそれを受ける人間を殉教者や英雄に高めることもあるのだ、と。

今日の日中と、【現代のヘルス・ケア・システムに求められているのは、発展途上社会でも先進社会でも、病いの心理社会的・文化的な特徴を体系的に認識し治療することである。】

f:id:ka-gu:20191123173435j:plain

 今日は早番でしたが、早めに出て『臨床人類学』を読み終え、ソンタグに入りました!少し前の本ですが、戦争について書かれているので、ある意味タイムリーなのかも知れません。空がきれいでした!

f:id:ka-gu:20191123173725j:plainf:id:ka-gu:20191123173743j:plainf:id:ka-gu:20191123173755j:plain

 朝から、送迎などで少しバタバタしましたが、予定のない方々と、すき屋さんで外食しました。としちゃんはメガ......。ゆうちゃんは、おんたまカレーの大盛り.......。

 

f:id:ka-gu:20191123173840j:plain

 久しぶりに、すろーじゃむの湯に行きました!4人入っても狭く感じないので、みなさん温まりました!一緒に行った職員さんは、初めてだったので、お風呂の大きさにびっくりしていましたが、休みの日に使わないともったいない!って言ってくれていたので、どんどん使って下さいね。灯油を入れないといけませんが。

f:id:ka-gu:20191123173916j:plainf:id:ka-gu:20191123173936j:plain

 戻って来たら、送迎者がスタンバイしてくれていて、いのうえっちが悪戯していました(笑)。

 

 昨日の夜勤者が、皆藤先生の本を真剣に読んでくれていて、事例のところは分かり易く、自分の中に入り易いと言っていました。アカデミックに言わないと、下に見られがち(笑)ですが、臨床や現場では、それは勿論、道具にはなりますが、実践の場では取り敢えず人間関係を作って、その時間を一緒に過ごし、生きた時間にしないといけないので、そんな時にアカデミックになんてなっていられない(笑)。ステレオタイプならそれを通すのかも知れませんが、それはおそらく、百害あって一利なしでしょうね。

 学習した物(現場と机上とで)が自然に出せるというのは、本当に、真剣にやらないと自然には出て来ません。

 下記は、最後の臨床人類学からのアップです。

 

第九章 癒しの過程
第四節 考察
 〜現代のヘルス・ケア・システムに求められているのは、発展途上社会でも先進社会でも、病いの心理社会的・文化的な特徴を体系的に認識し治療することである。

 そのためには、臨床ケアの根本的な再概念化と臨床実践の再構造化が不可欠である。

  土着的治療者は、多くの場合、疾病を体系的、効果的に診断・治療することができないが、現代の医療従事者(医者にかぎらない)は、適切な教育・訓練さえ受ければ、疾病と病いの両方を効果的かつ体系的に治療することができるだろう。

ギターのチューニングと、西田幾多郎と、【 むしろ、実際の体験は、知覚した言葉の音を組織化するためのもって生まれた一連の機能のひき金になるのである。】

f:id:ka-gu:20191122114851j:plain

  ギターのチューニングは、真剣にやらないと(笑)、当たり前ですが、ハイポジションでは全く使い物になりませんね。まるで月に行くロケット(例えが昭和w)の軌道を考えるように、解放弦で少しでも上がり気味であっていたとしたら、12フレットでは、それより2~3セント上がっていますし、下がり目で合わせた場合も逆のパターンで下がっています。自分は解放弦と12フレットで折り合いをつけるようにしていますが、めんどくさい時に解放弦だけで合したら、結局、ハイポジションで気持ち悪くなるので、いつも後悔しています......。まあ、解放弦だけで合しても、細心の注意を払って合わせれば、ハイポジションでも、自分の耳では許容範囲の時もありますが。

 

 昨日、帰宅してネットサーフィンしていたら、下記が出ていました。

木村敏先生の本を読んでいて、西田哲学について調べてみたいと、図書館で何冊か借りたこともありましたが、理解できたかどうかは、怪しいです(笑)。

 下記は非常に分かり易いですね。河合隼雄先生のこのような本が、大阪で時間が経っていたのに、本屋さんで置かれていたのも、理解出来る気がしました。

 

 

 

  サリヴァンを読み始めた時には、精神分析の本もあまり読んでいなかったので、本当のありがたみや意味が理解できていなかったんだなと、最近つくづく思います。

 下記はオグデンからの引用ですが、またまたサリヴァンを思い出しましたし、もうすぐ読み終える予定のクライマンには、精神分析理論が間違った解釈で広まって、それが臨床の場で患者さんを診る時に邪魔をしていると言うような記述がありましたが、なんでも中途半端はいけませんね。

 自閉症の方々の支援も、絵や写真を使うと言うのがあり、自分もノースカロナイナまで行かせて頂きましたが、根本は人間として認めることだと思います。佐々木正美先生も、それを使う前にキチンと心理学の勉強をまずはするべきだ!とも言われていました。重度の自閉症の方でも、特に絵や写真を使わずとも、うたたねではきちんと支援ができています。誰かが言っていましたね、絵カードや写真を使うと、初心者はその効果にびっくりして、中級者は自分の実力が上がったと勘違いするって.....。鋭い指摘ですね。中々人前では言えませんが、その方は言っておられ、佐々木正美先生は、その方らしいとも、仰っていました。勿論すべてを否定する気は毛頭ありません。その方の特性で、それが必要な時もあるし、支援者の経験や実力が不足している場合にもそれに頼らざる得ない時もあります。でも、本当に大切なのは、その方と同じ空間で、生きた時間を過ごすと言う事です、それがなければ、何を道具に使おうが対症療法だけで終わってしまいます。

 体験を知覚した言葉の音の組織化にするには、生きた時間を一緒に過ごさせて頂くしかないと思っています。そうやって下記を読み返してみると、クラインマンもサリヴァンもクラインも結局は、同じことを言っているようにも思えて来ます。

 

  ~クラインにとっては、家族によって、文化によって、時代によってかなり異なる現実の体験は、データを供給するものである。そのデータは本能に内在するコードによって高度に決定づけられて組織化される。

 言語の深部構造にたとえるなら、広い範囲の音素的データ(実際に話されている言語の音)は十分な「刺激」を供給し、それによって乳児は言語の音単位を、特定の言語の統語論的構造をかたちづくるシステムへと、知覚し組織化するのである。

  話し言葉にさらされることを含めて、養育する人物との相互作用は不可欠である、がしかし、文法を構築する方法についての特異的な情報の源として、不可欠なわけではない。

  むしろ、実際の体験は、知覚した言葉の音を組織化するためのもって生まれた一連の機能のひき金になるのである。

クリスマスのお茶碗と、【人間がすべての知覚を性的な意味という見方から解釈し、それによって体験を創造する、という含意こそが、はるかに大きな意義をもっているのである。】

f:id:ka-gu:20191121190731j:plain

 今日は、自分の受診で豊橋まで出て、病院の近くのお茶屋さんで、普段飲みの正喜撰を年末年始分も買ってきました。

 ご主人曰く、最近はクリスマスだけでなく、ハロウィン茶会なる物もあるとの事(笑)中々日本らしくて良いですね!

f:id:ka-gu:20191121190750j:plainf:id:ka-gu:20191121190801j:plain

 袋詰めしてくれている間に、お店の中にある花器やお茶碗を見せて頂きました。

見応えのあるものが沢山ありましたが、高額なので見せて頂くだけに.......。

 

f:id:ka-gu:20191121190835j:plain

 帰りは、安いみかんを求めて(笑)、白須賀の直売所まで足を延ばしました。安いみかんを買って帰りました。

 

 『臨床人類学』を早起きして、近くのファミマで読みましたが、もう少しで読み終えそうで、読み終えなかったです(笑)。今月中にはというか、今週中には読み終えます。本当に勉強になりました。400頁まで来ましたが、まだあります.......。

次は、ヘルマン医療人類学にいこうかと思いましたが、ちょっと頭を切り替えてソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』に行くつもりです。気が変わるかもしれませんが(笑)。

 

 性的という表現や、クラインの性器などの表現が、精神分析を違う方向で見てしまう危険性を示してしまっているのも事実でしょうが、逆に分かり易くしてくれているのも、事実かも知れません。性的を性愛的にしてもあまり変わらないでしょうか?実際そのような表現がありますね。それを愛にすればどうでしょうか?余計に漠然としてしまうのでしょうか?ギリシア語には、愛と言う言葉はそれひとつであり、日本語のように親子愛・兄弟愛などという個別の愛という語はないと、若い頃読んでいた本に書かれていましたが、何の本だったか?すっかり忘れてしまっているうえ、自分でギリシア語を調べたわけでもないので、偉そうには言えませんが、個人的には、愛と言う方が誤解なく心に入って来ます。支援をさせて頂いていても、結局は愛という語に行きつくのではないでしょうか?それは恋愛の愛ではないことは、真剣に現場で支援されている方には、理解して頂けると思われます。

 障がいの有無関係なく、ダメな事はダメ!ときちんという事ができないと、お互いに成長できませんし、本当にその方の将来の為になりません。現場でよく見られることですが、建設的な支援方法を考えていかないと、単なる対症療法だけになってしまいます。例えば、子どもの声が苦手で、外出を控えていて、どうしても行かないといけない時にはヘッドフォンをして、音楽を聴いて気を散らす場合には、ヘッドフォンをしている時間を段階を踏んで、短くしていくとかの、建設的な考えを持つと、持たない支援には時間が経つにつれて、雲泥の差が出て来ます。支援計画とか見ていると、何のための短期目標?何ための長期目標?みなさん出来ない事や、きれいごと書いて済ませているだけ(笑)。その方を真剣に見せて頂く事ができたら、その方が本当に必要としていることが見えてくるはずです。

 いつもの如く(笑)逸脱してしまいました........。

 

  この視点に立てば、性本能は単に情熱、衝動、欲望ではなく、人間が意味を創造するためのただひとつの媒体である。

  言葉を替えると、フロイトは、単に性的な願望と衝動を生成すると考えられるものとして、性本能を提唱したのではない。

  人間がすべての知覚を性的な意味という見方から解釈し、それによって体験を創造する、という含意こそが、はるかに大きな意義をもっているのである。

  内的、外的な知覚は、性的な意味のシステムというレンズをとおして意味づけられる。

  さらに別のたとえを用いるなら、性本能は、人間がなまの感覚データの意味を担った体験へと翻訳することを可能にする、ロゼッタストーンなのである(このアイデアに関する視点からの議論については、Greenberg and Mitchell,1983を参照)。

一昨日の夜勤と、【ケアが全体的であるというのは、それが健康や健康維持、だけでなく初期症状のラベリングや治療の選択にはじまって治療効果の評価まで、病気の全経過をカバーしているからである。】

f:id:ka-gu:20191120102811j:plain

 一日遅れのアップになってしまいました。

昨日は、夜勤明けにもかかわらず(笑)、私用と会議などであっという間に時間が過ぎてしまいました。

f:id:ka-gu:20191120102507j:plainf:id:ka-gu:20191119193000j:plain

 一昨日の夜勤も、皆さんと楽しく過ごすことができ、皆様に感謝です!

寒くなったので、身体を冷やさないように、気をつけています。

 

 下記はまた、クラインマンに戻っています。

生活系の施設の支援員も、どちらかというと、家族的な感じがしています。ケアが全体的というのも、生活系の施設の支援員は思うところがあるのではないでしょうか?

第八章 病者と治療者(Ⅱ) 
第三節 治療者と病者の相互作用(五)
四.臨床リアリティ
b.家族=病者間の交互作用では、病気について、症状の変化と意味の文脈との両面に関心が向けられている。

  しかし、どちらかと言えば疾病問題よりも病い問題の解決にかかわることの方が多い。病い問題として分類されるのは、経済的問題や仕事に関連した悩み、個人や家族によるストレスの知覚とストレスへの対処行動、道徳的な疑問、日々の暮らしのなかでおこるその他多くの問題である。

  ケアが全体的であるというのは、それが健康や健康維持、だけでなく初期症状のラベリングや治療の選択にはじまって治療効果の評価まで、病気の全経過をカバーしているからである。

トナカイがいっぱいと、【フロイトは、性的な欲望がおそろしく強力な人間的な動機であると主張するだけでなく、それが生まれたときから存在していることをも主張する。】

f:id:ka-gu:20191119115647j:plainf:id:ka-gu:20191119115717j:plainf:id:ka-gu:20191119115744j:plainf:id:ka-gu:20191119115818j:plainf:id:ka-gu:20191119115857j:plain

 12月の足音も聞こえて来たのか?昨夜、まりちゃんが買ってきたクリスマスグッズで、皆さん楽しまれていました!

f:id:ka-gu:20191119120119j:plain

 最後は、まりちゃんは、角でたっくんのお尻を刺すと言う暴挙(笑)で終わりました!

f:id:ka-gu:20191119120303j:plain

 こちらは、せんとくん?トナカイではなさそうですね.......。

 

 今日は夜勤なので、またまた、早めのアップです。今日はどんな楽しいことがまっているのでしょうか?

 

 『臨床人類学』は、やっと300頁を超しました。台湾の中国医の例になって、一気にスピードが上がっています。日本も似たようなところ(大陸の文化の影響をまともに受けていますので)があるので、理解しやすいのでしょうか?でも、後100頁(笑)。

 

 下記は、オグデンに戻っています。オグデンも十分古典なのでしょうが、時の天才は、やはり感性が豊かですね。感性が豊かでないと、こういう仕事は(福祉の支援も含めて)しんどくて辛いだけと感じてしまうのかも知れませんね。

 愛着障がいも、下記の事を忘れてしまった結果なのかも知れませんね.......。

 

フロイトの「知識の遺伝」の概念
 私が思うには、このようなクライン派の系統発生的に遺伝された「知識」という概念に関する理解(ビオン(1962a)が「前概念」と呼ぶもの)は、心理学に対するフロイトのふたつのもっとも基礎的な貢献のうちの、第二(できあがった時代順で)のものの発展である。

  第一の貢献は、無意識的なこころを概念化したことである。ひとは自分の気づいていない思考、感情、動機づけなどをもち、観察できる思考、感情、行動の性質にそれらが強力な影響をもたらす、という考えである。

  フロイトのふたつの記念碑的な貢献の二番目は、性的な意味についての彼の理論である。精神分析理論のこの第二のかなめの重要性が、近年かなりの程度見失われてきているように、私は思える。

  フロイトは、性的な欲望がおそろしく強力な人間的な動機であると主張するだけでなく、それが生まれたときから存在していることをも主張するフロイトの性理論のうちのこれだけは一般的に理論され、評価されているが、このことがフロイトの性理論のおもな意義であるとは、私は思わない)。

  しかし、もっとはるかに根源的な提起は、人間のすべての動機、人間のすべての精神病理、人間のすべて、文化達成、人間のすべての行動が、性的な意味の見地から理解されうるというフロイトの考え方である。

昨日の日中の写真の続きと、【台湾のシャーマンは極貧家庭の出身であることが多く、まだ若いときに片親を亡くしたり、両親と死別したりしていることもままある。】

f:id:ka-gu:20191118101411j:plainf:id:ka-gu:20191118101437j:plainf:id:ka-gu:20191118101511j:plainf:id:ka-gu:20191118101549j:plainf:id:ka-gu:20191118101618j:plain

  昨日、日中一緒だった女性職員さんから、素敵な写真を頂きましたので、アップし直させて頂きます。

 

f:id:ka-gu:20191118100350j:plain

 

f:id:ka-gu:20191118095638j:plainf:id:ka-gu:20191118095712j:plainf:id:ka-gu:20191118095740j:plain

 

f:id:ka-gu:20191118095815j:plain

 きれいな写真ですね!こちらをアップさせて頂いたら良かったですね!

 

 

 今日は、遅番なので早めのアップです。

先程、ルーチンをこなすために(笑)、ファミマでコーヒーを頂きながら本を読んでいたら、なんだか自分とシャーマンが重なる感じがして(そんな能力は自分にはありませんが)、読んでいた所(臨床人類学の)のアップです。

 

第七章 病者と治療者(1)
第二節 台湾における治療者たちーー一般的考察ーー
 〜ニ五名のシャーマンを観察したが、そのうち一〇名には個別的に面接をおこない、精神状態を診断する機会をもった。精神病理学的徴候をしめす者も、重い精神医学的な問題の既往歴をもった者もいなかった。

   むしろ、大部分のシャーマンは強靭なパーソナリティをもち、適応的に対処する多くの技術を身に付けた人並み以上の人物であった。

  人生の危機や個人が直面する困難をすばやく見抜き対処することに熟達しており、効果的に儀式を用いる能力とともに、対人コミニュケーションをたくみにあやつる能力をももっている。地域の人びとやクライエントは、そのような能力を認めているのである。

 

  〜台湾のシャーマンは極貧家庭の出身であることが多く、まだ若いときに片親を亡くしたり、両親と死別したりしていることもままある。

  また、隣近所や地域の人びとのみるところでは、シャーマンは、役に立つ“善良”で分別のある人物だが、立身出世ので道が閉ざされており、一族の援助もさほどのぞめないとされている。

  しかし、さまざまなつらい経験を重ねるうちに、社会的ネットワークの力を借りて、シャーマニズムを成功への手段として役立てるようになる!またそれは、“神からいただいた才能”ともみなされ、シャーマンは奉仕を通じて神へご恩返しをするのである(民間に流布している考え方では、シャーマンは“人びとに仕える”といわれている) 。

  シャーマンは神からならびに地域のため、それに自分自身のために、“成功”するように期待されているのである。このようなわけで、成功を求める動機が大前提としてあるので、シャーマンはつねにいまより新しい大きな廟(あるいは家)を建てようとしているし、自分の神の治療知覚を宣伝するのに躊躇したりしない。〜

やっと半分(笑)と、今日の日中と、【クライン派の理論では、本能とは、「前概念」をその「現実化」へと連結する(Bion,1962b)ために実際の体験を利用するような、生物学的に決定された組織であると考えられている。】

 

f:id:ka-gu:20191117210039j:plain

 今日も早めに出て、ファミマで臨床人類学がやっと半分読めました。個人的に新しい言葉が沢山出て来るので、調べまくって時間がかかっています。知識のなさを本当に恥じています.......。でも、勉強になっています。

f:id:ka-gu:20191117210258j:plain

 お昼は、7名ではま寿司さんに行きました。自分のテーブルはゆっくり食べられる方ばかりでしたが、女性職員さんの方のテーブルは.......。

 明日からダイエットするとか(笑)、足らないので、大村の蔵寿司に行くとか(笑)の、話が出ていたとのことでした........。

f:id:ka-gu:20191117210535j:plainf:id:ka-gu:20191117210610j:plainf:id:ka-gu:20191117210656j:plain

 午後からは、ゆっくり組さんでお薄を頂きに行って来ました!

朝夕は冷えますが、日中は暖かかったですね!

 

 

 下記は、オグデンに戻りましたが、またまた難解な箇所ですね。

サリヴァンが、その人がやったことが無い、考えたことが無いことをやるには相当時間がかかると言っていたのを(本の中で)思い出しました。当たり前と言えば、そうなのかもしれませんが、思考と言うのは、その当たり前のことを、どの角度から見るのか?というのが大事な事なのかもしれませんね。本能というのは、人類の歴史の中で、過去の中で培われたものと考えれば、理解しやすいのかも知れませんね。突き詰めればDNAレベルの話に、またまたなってしまうのでしょうか?

 

   ~「母親と愛情に満ちた関係をもつ子どもも、母親によって貪られ、ひき裂かれ、破壊される恐れを無意識に抱いている(Klein,1963b,p.277)。」
 クライン派の理論では、本能とは、「前概念」をその「現実化」へと連結する(Bion,1962b)ために実際の体験を利用するような、生物学的に決定された組織であると考えられている。

 

 

  たとえば、危険という前概念は現実と局面に連結されて、危険として体験されることができる。

  前概念は観念ではなく、観念の潜在的可能性である。現実と前概念との連結においてのみ、概念(思考)が生成される。

ツワブキと、インフルエンザ流行期にと、【この妄想は明らかに、患者が深刻な不安感を処理する上で、おおいに助けになっていたのである。】

f:id:ka-gu:20191116191406j:plain

 昨日の散歩で、ツワブキが沢山咲いていました。葉の形も花の色も大好きです。


 そろそろ、インフルエンザが流行期に入った様です!手荒い、マスクは必須となりましたね!

 

 

 周囲から変な行動と見られていても、その方にとっては、その行動が自分自身を防衛する行動なのかもしれないので、一概に変な行動はいけない物だとか、病的なものだとかと、決めつけない方がいい時も確かにありますね。

 誰でも、自分が知っている範囲しか理解できないし、信じる事もできないので、尚更、勉強や広い視野を持った方々との交流が大事なのを痛切に感じました。

 井の中の蛙にはなりたくはないですしね。本題から逸脱してしまいましたが、昨日の続きです。

 

 〜患者も一般の人も、あるいは医者でさえ、自分の説明モデルと矛盾するような事実にぶつかったとか、すぐに説明モデルを変えたりすることはまずないが、そうした事実にくりかえし直面すれば、ほとんどの人が自分の説明モデルを変えたり否定したりするだろう。

 しかし、先の二つのケースの場合は、文化的に受容されている信念があり、自閉的モデルによって心理的な適応も得られているために、身体にかかかわる妄想を治療するのはかなり困難である。

 ただ、医師がいったんこの妄想を理解してしまうと、それはたいして有害なものではないことが分かる。したがって、医師は危険な検査や治療をあえておこなわなかった。

 この妄想は明らかに、患者が深刻な不安感を処理する上で、おおいに助けになっていたのである。

 このようなわけで、どちらのケースにおいても、これ以上の検査はやめ、“病気行動”は治療しないでおく方が望ましいように思えた。

 実際、二人とも数か月後には自然に良くなったのである。〜